7日目
江戸の深川を出発して7日目、芭蕉の一行は黒羽(栃木県大田原市黒羽)に到着しました。
ここで芭蕉は、弟子の浄法寺桃雪を訪ね、歓待されました。
この桃雪は、師匠の来訪を大いに喜び、日夜語り明かしたそうです。
また、弟の桃翠を紹介すると、かれは毎朝毎晩やってきて、親交を重ねていきました。
芭蕉らも、この歓待を大いに喜び、桃雪や桃翠を始めとする地元の方々との親交を深めていきました。
大田原市は、この芭蕉ゆかりの地に芭蕉公園を造って「街おこし」を行っています。
さて、森村芭蕉が、この地を訪れた際に、この芭蕉の黒羽滞在に関する謎解きに挑まれました。
その謎とは、旅の7日目にして、13泊14日という長逗留を、なぜ行ったのかということでした。
雨が降り続いたからという説もありますが、この時期、長雨がそんなに長く降り続けることはなかったはずです。
宴会を行ったとしても、あるいは、桃雪らが紹介した親戚や知人と面会したとしても、さらには黒羽近郊の名所を訪ねたとしても、14日は、あまりにも長い期間であり、何よりも、芭蕉らにとって奥の細道の旅は始まったばかりでしたので悠長なことはできなかったはずです。
ここで森村芭蕉は、その理由をズバリ、次のように推理しました。
それは、芭蕉を親切に世話した女性がいたのではないかということでした。
そうであれば、14日という長逗留を行ったことにも合点できます。
かなりの確度で、この森村芭蕉の推察は、的を射ていますね。
芭蕉は、ここで、次の句を詠んでいます。
山も庭も 動き入るるや 夏座敷
これは、黒羽の山河と浄法寺家の庭園の美しさを絵画的に表した句とされていますが、森村芭蕉は、それだけでなく、その夏座敷には人(女性)が出入りしたことも示唆していたのではないかと指摘されています。
未知の地において、その日はどこに泊まるのかを毎日探していく旅であり、黒羽に到着する前日の宿は、農家の厩舎でした。
おそらく、桃雪らの親身溢れるもてなしが、心に響くほどにうれしかったのではないでしょうか。
馬上の芭蕉
ところで、黒羽の芭蕉公園には、馬に乗った芭蕉の像が建立されています。
芭蕉は、その馬をどのようにして手に入れたのかが気になりました。
江戸時代の馬は高価ですので、武将たちが乗り回す戦用で25両(165万円)という説もあり、かれが乗っていた馬は、おそらく農耕馬でしょうから、それは、その価格の半分以下と考えられます。
しかし、それでも、そんな金を芭蕉が持っているはずもなく、馬を買って道中を楽に進むとすれば、たちまち旅費が無くなってしまい、旅を終えなければならなかったことでしょう。
この芭蕉の乗馬には、次のような言い伝えがあったそうです。
黒羽に至る前日に、芭蕉らは道に迷い立往生をしていたら、そこに農民がやってきて、こういいました。
「この馬を貸してやるから、これに乗って進んでください。この馬は、道を知っていますので迷うことはありません。
そして、この馬が止まったら、そこで降りてください。馬は、自分でここまで帰ってきますから、心配いりません」
芭蕉らは、見も知らぬ農民の親切を、心から嬉しく思ったにちがいありません。
その逸話に基づいて、その騎馬像が建立されたのでした。
そして、この騎馬による道程においては、もう一つおもしろい言い伝えがあります。
その芭蕉らの一行の後を、二人の幼子が付いていったのです。
面白半分なのか、あるいは無事に辿り着くかを心配したからでしょうか、その理由は解りません。
その男女のうちの女の子の名前が「かさね」でした。
芭蕉の弟子であり、随行者の曽良は、この女の子を気に入ったのでしょうか、次の句を詠まれています。
かさねとは 八重撫子(なでしこ)の 名成るべし
想えば、旅に出でて4日目に裏見の滝において不動明王を前にしての修行によって心身が清められ、引き締まった心持で北上を敢行してきた芭蕉らにとって、思いもよらぬ桃雪らの「もてなし」が、よほどうれしかったのではないでしょうか。
ここで黒羽のみなさんの温かい人情の機微に触れ、「人間とは、ありがたいものだ」とつくづく思われたのでしょう。
さて、森村芭蕉は、その奥の細道新紀行である『芭蕉の杖跡』において、この黒羽のことについて「かさね」のことを詠んだ曽良のことを記しているだけで、その長逗留の事にも何も触れていません。
これもまた、謎といえますが、おそらく、そのことよりも他の何かに関心が移っていたからではないでしょうか?
黒羽に向かう途中で、モミジの素晴らしさに感動して下車した折に、次の句を詠まれています。
モミジの散策中に出会った人に一輪の竜胆をいただいてうれしかったのでしょう。
行きずりの 竜胆(りんどう)ありて 途中下車
可憐な紫色の竜胆の花を観て、感激されていました。
私も、この季節に、東日本大震災の復興支援に向かうために降り立った一関駅構内において、無造作に置かれていた竜胆の花束を観て、その美しさに目を奪われたことがありました。
真に、咲く紫が旅路を彩っていました(つづく)。
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