シーボルトと密会
高野長英と渡辺崋山のやり取りを静かに聞いていた伊達宗城公が、その間に入ってきました.
「ところで崋山さん、あなたは、シーボルト先生が上京した折に、助手のハインリヒ・ビュルゲルに面会されたそうですね。
かれは、薬学者で、ドイツのゲッチンゲン大学を卒業し、その後オランダ政府からシーボルトの助手として雇われ、日本にやってきました。
シーボルト先生もドイツ生まれであり、日本の植物研究のために、助手のかれが重要な役割を果たしていました。
ゲッチンゲンといえば、ドイツのロマンチック街道の真ん中あたりにあり、旧市役所の前の広場に建てられた「ガチョウの娘(ガンゼ・リーゼ)」の像が有名です。
ゲッチンゲン大学を卒業して学位を取得すると、この像の前に集まってお祝いをするそうです」
あまりにも詳しい説明に、渡辺崋山は驚きを隠すことができないままに、こう尋ねました。
「さすがですね。たしかに、あの折にハインリヒ・ビュルゲルに面会しましたが、あまり有益な情報を得るまでに至りませんでした。
あの時、私が知りたかったのはルネサンスの主役であった西洋絵画のことであり、とくに、その代表的人物であったレオナルド・ダ・ヴィンチのことでした。
しかし、かれは、そのことに詳しくなく、シーボルト先生が、実際にかれの作品を見たことがあったということを教えてくれました」
「そうでしょうね。それ以上の事を話すと、かれの立場が悪くなるので、慎重になっていたのだとおもいます。
おそらく、シーボルト先生から、そのことを硬く口止めされていたのではないでしょうか」
「といいますと・・・?たしかに歯切れがよくなかったですね!」
「そうでしょう。じつは、私は、あの時密かにシーボルト先生と会っていたのです。
そのことを幕府に知られると、かれと私の身が危うくなるので、非常に気を使っていました。
そのことを弟子のハインリヒ・ビュルゲルさんにも告げて、硬く注意していたいたのだとおもいます」
「そうだったのですか、道理でハインリヒ・ビュルゲルさんが慎重だったのですね。
なにか、おかしいなとはおもったのですが、こちらは、レオナルド・ダ・ヴィンチのことが聞きたくてうずうずしていましたので、それはハインリヒ・ビュルゲルさんの口癖なのかな、とおもっていました」
今度は、高野長英が口を挟みました。
「なるほど、シーボルトの助手のハインリヒ・ビュルゲルが、崋山さんによく面会できたなとおもっていましたが、それはシーボルト先生の許しを得て、余計なことはしゃべるなといわれての面会だったのですね。
ところで、宗城公、その時、シーボルト先生とは何を話されたのですか?
気になりますね!」
「まず、あなたのことを尋ねました。高野長英というお弟子さんは、どんな方ですか?
そしたら、先生は、あなたの語学力のことを非常に評価されていて、あなたが描いた論文を下敷きにして、日本研究の本を出版される予定だと仰っていました。
また、あなたが、医学を勉強しながらも、軍事技術や西洋の文化や哲学までも徹底して学ぼうとしていることにも好感を抱いておられました。
そのことを聞いて帰り、二宮敬作さんに相談して、あなたを密かに宇和島藩に招聘しようということになったのでした」
「二宮は、そんな事情を少しも明かしてくれませんでした」
「長英さん、それは当然のことだよ。
宗城公との硬い約束だったので、酒を飲むと何でもすぐにしゃべってしまうあなたとは違う、私は、酒を飲んでもは秘密は守るのだよ!」
二人をとりなしてから、崋山が宗城公に対して尋ねました。
「それでは、シーボルト先生は、ルネサンスのことをどう語られていたのですか?」
ルネサンス論
「シーボルト先生は医者でありながら、植物や芸術についても造詣が深く、しかも、ドイツ人特有のきめ細かい確かさがあって、それらの文献や資料をたくさん集積しておられました。
決して曖昧さを少しも残さない、あれは私たちが真似することができない習性といえますね。
しかも、幅広い学識を身につけていくことを好み、その知見をきちんと積み重ねていくのですから、典型的な博学者といってよいでしょう」
「やはり、科学の成り立ちと文化の土壌が、わが国とは相当に違っていますね。
それらが、ルネサンスにおいて一挙に花開いたのではないでしょうか。
とくに、イタリアにおける絵画や彫刻はすばらしく、それを担ったのが、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの職人集団でした。
かれらの特徴は、芸術家であるとともに、軍事や市民のための技術者であり、優れた科学者でもあったことにありました」
「長英先生、さすがに正確に分析されていますね。あなたの報告のなかにも、そのことが強調されていました。
その西洋文化についての論議をシーボルト先生と交わした後で、先生にお願いをしました。
それは、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画を手に入れることはできないか、もしそれが難しいのであれば、その模写でもよいから見つけてもらえないでしょうか?」
「やはりそうでしたか。シーボルト先生は、隣国のドイツやオランダにまで人気を博していた、かれの最高傑作のひとつである『最後の晩餐』をご自分で観に行かれたそうです。
その時の感動を、私に熱く語ってくださったことがありました。
この絵画は、昔からたくさんの画家たちによって描かれてきましたが、それらとはまるで違っていて、この食堂のなかで、見惚れて長い間立ちすくんでおらたそうでした」
「長英さん、どこがまるで違っていたと仰られたのですか?」
「イエスが、その晩餐会の席で『このなかに裏切ろうとする者がいる』といった直後の弟子たちの一瞬の表情、仕草、そして頭のなかで何を考え、これからどうしようということさえ描かれていたそうです.
それから、遠近法のこともいわれていました。
このことは、シーボルト先生に誰にも明かしてはいけないといわれていました。崋山さん、申し訳ありませんでした」
「そうですか、私も、その話を直接先生から聞きました。
先生は、かれの話になると異常に興奮されるようで、声もより一層甲高くなって、身を震わせながら語ってくれました。
きっと、その時の興奮を思い出されたのでしょうね。
しかし、このようにも念押しされました。
私が、今話したレオナルド・ダ・ヴィンチなどの西洋文化のことは、徳川幕府のみなさんにはまったく内緒にしてください。
私と会ったことも無かったことにしてください。
そうしないと、あなたが危うくなります」
ここで渡辺崋山が、さらに身を前に乗り出して尋ねました。
「宗城公殿、そのレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は、手に入ったのですか?どのような絵画だったのですか?」
「はい、しばらくして、シーボルト先生から、その問題の絵画が届きました。
みなさん、ここからは、とくに重要な機密事項ですので、絶対に口外しないと約束してください。いいですね。
それは、小さな絵画で、それには聖母と幼児のころのイエス・キリストが模写されていました」
崋山は、小躍りしながら、その絵画のことを次のように尋ねました。
「その絵画の名は、なんというのですか?」
「それは、『糸巻の聖母』というのだそうです。
どうやら、この絵は、何十枚も描かれ、さらに、その模写もたくさんなされたそうです。
一番大切なイエスの顔や身体、そしてマリアの顔は、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたそうですが、そのほかは、弟子たちによって描かれましたので、いわばレオナルド・ダ・ヴィンチの工房の合作だといわれています。
その目で観てみると、マリアの手や衣服などにおいてダ・ヴィンチほどの上手さが出ていないようにおもいます。
崋山さん、この絵画を観て驚いたのは、人物を線で描いていないことでした」
「えっ!それは、どういうことですか?」
こう聞いて、崋山は、思いもしなかったことを聞かされ、心臓がバクバクするほどの驚きを覚えていました。
「線がない、どうして、それで人物を描くことができるのか?」
その傍で、長英が、なるほどという「すまし顔」になっていました(つづく)。
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