老いと微笑みの哲学(2)

 昨年あたりからでしょうか、読書の量が増えてきて、若かりしころの読書量に近づいているのではないかと思い始めています。

 前職場においては、よく出張していて、年間の出張日数が186日であったことを、ご苦労なことに、他人が調べ上げて、それが多すぎると非難されたこともありました。

 何も迷惑をかけておらず、きちんと授業振替を行いながらの出張でしたが、外に私が出かけることを忌まわしいと思われたのでしょうか、それを改善しないと役職にはつけさせないとまでいってきたのには呆れてしまいました。

 そんなこともあって、定年退職後において、ここ国東市に自宅を設けた最大の理由は、車で4分ほどにある大分空港から東京、大阪に行くのが便利だといいうことにありました。

 しかし、今では、それもめっきり減ってしまい、逆に先方からやってくる訪問者を迎えての対応が増えました。

 かつての出張の折の楽しみは、新幹線や飛行機に乗る前後において文庫本を買って読むことでした。

 たとえば、行きの新幹線の場合は、駅の売店で、元気に出張を熟していくために、必ずといってよいほどに「アリナミンVV」というドリンクを買ってから、書棚に行って森村誠一さんの新刊本を手に入れて喜んで乗り込んでいました。

 その時が昼頃であれば、1200円の徳山駅特製の幕の内弁当を車中で美味しくいただきました。

 また、東京駅からの帰路においては、大丸で崎陽軒の中華弁当と缶ビールが定番で、それをいただきながら、同じく、森村誠一の文庫本を読むことが、ゆかいな新幹線の過ごし方でした。

 行きは、元気を付けて心さわやかに、そして帰りは、ほっと安堵して心身を癒すためでした。
 
 周知のように、森村さんが、小説家の師として強く影響を受けたのが松本清張さんでした。

 大学4年生の時に、同じ研究室のI君が松本清張の全集を買って持ってきていましたので、それが出る度に借りて読み、清張のスケールの大きさと読みの深さに吃驚したことを覚えています。

 この全集のおかげで、すっかり清張ファンになり、そこから続いて森村小説に親しむようになりました。

葉室歴史小説との出会い

 そして、同じく清張を師のように考えられていたのが、葉室麟でした。

 同郷の先輩であり、かれと同じく、新聞社の仕事をしながら作家を目指しました。

 そして、50歳という遅咲きながら、かれを目標にして筆を進めていかれました。

 このお二人には、何となく九州人らしい匂いが感じられました。

 私が、葉室麟の小説に初めて触れたのは2013年の初頭であり、病床の上でのことでした。

 最初の文は、『銀漢の賦』であり、続いて『乾山晩愁』、『風の王国』などと進み、すっかり気に入りました。

 そして、2013年の春に退院してから、直木賞をいただいた『蜩ノ記』をうれしく拝読しました。

 なぜなら、大病からの脱出が可能になったこと、そして、この小説の舞台となった羽根藩が、私が住んでいる国東半島を想定していたからでした。
 
 この主人公は羽根藩の侍、戸田秋谷であり、ある事件を起こした罪で10年後に切腹を命じられていました。

 その間に、地元の人々にも信頼され、地場産業としての「七島イ」の生産を開発された方でもありました。

 また、その蟄居の間に「家譜」を執筆、完成させることも課せられていました。

 そして、場内で刃傷沙汰を起こした檀野庄三郎が監視役として赴任し、戸田家の家族と同居するようになります。

 その家族とは、秋谷の妻と娘、息子の4人であり、その付き合いの中で、庄三郎は、秋谷への信頼感を徐々に深めていきました。

 その結果、庄三郎は、秋谷の罪を疑うようになり、その探索までするようになります。

 この罪を被ったことは、先代君主から与えられた密命であり、その時起こっていた「お家騒動」を隠ぺいするためのものでした。

 村人のなかに一機を起こそうとしているものがあるとして、秋谷の息子である郁太郎の友人が捕縛され、取り調べによって殺されてしまいます。

 そのことが納得できないとして郁太郎が家老に抗議に行こうとすると、それに庄三郎が同行しました。

 この二人を取り戻すために、蟄居の掟を破って、家老宅に出向いた秋谷は、家老の脅しに屈せず、かれを殴り倒して、二人を連れ戻していきました。

 そして、秋谷は、少しも臆することなく、堂々と切腹に向かったのでした。

 庄三郎らは、それを涙ながらに見送ったのですが、その情景は、この国東の森の様子とよく似ていました。

 武士とは何か、そして約束を貫く信念とは何かを考えさせる小説であり、映画でした。

 後者は、『雨あがる』、『博士の愛した数式』を製作された小泉尭史が監督でした。

 自らが受容した密命を最後まで守り通した信念、それを貫きながら家族と友人への愛の付加さ、これらが、この物語のテーマでした。

 葉室麟は、『銀漢の賦』から始まって4年連続で直木賞候補になり、この五作目の『蜩ノ記』で、それを受賞されました。

 この主人公の秋谷への想いは、葉室自身の直木賞への想いと、どこかで重なっていたのではないでしょうか。

 ここから、葉室の羽根藩シリーズが始まりましたが、そこには、その二つのテーマが鮮やかに受け継がれ、そしてより進化していきました。

 
羽根藩シリーズ

 これらを紹介しておきましょう。

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羽根藩シリーズ(祥伝社のHPから引用)

 これらのすべてを読了してきましたが、なんだか、心のなかがすっきりして、自然に微笑が浮かんできたことを思い出します。

 それぞれの感想については、かなり長くなりそうなので、ここでは、その一つを明らかにしておきましょう。

 それは、秋谷の息子が大きくなって、上図の『草笛物語』に再登場してきたときの話です。

 この時、檀野は、当時の秋谷とほぼ同じ年齢に達していて、密かに郁太郎を見守っていました。

 この最後で、藩主の次にあった者が、藩主を追い出そうとして、藩主の信頼を集めていた戸田郁太郎を屈服させるために、その妹を自分に嫁がせよ、と命令したのでした。

 その嫁入りの時に、庄三郎と、その塾生の子供たちが立ち上がり、娘の奪還を計画し、その際の合図が「口笛」だったのです。

 そして、そこに、郁太郎が駆けつけます。

 かれの特技は、「石投げ」であり、これによって、その狼藉者の家来たちが次々に倒れていきました。

 こうして、庄三郎たちは、郁太郎の娘を奪還することができました。

 これを藩主も見守っていて、狼藉の藩転覆が回避されたのでした。

 さて、ここでおもしろいのは、郁太郎の「石投げ」のことでした。

 それは、『蜩ノ記』において、最初に会ったときに、郁太郎は庄三郎と取っ組み合いの喧嘩をしました。

 その理由は、父親が、藩命によって間もなく死ぬことを秋谷と庄三郎の会話を偶然耳にし、その監視役として庄三郎がきたことを知ったからでした。

 庄三郎が、郁太郎に話しかけると、郁太郎は、それを拒否して取っ組み合いになりました。

 しかし、この取っ組み合いは、子供と大人の違いがあって、いくら飛び込んでも、郁太郎は投げ返され、負け続けました。

 この時に、郁太郎は、思わず石を掴んで投げ、そのために庄三郎は、顔に傷を負ったのでした。

 郁太郎は、たくさんある国東の溜池において、石を投げる練習をしていたので、すでに、この時に、石投げの名手になっていたのでした。

 この優れた技が、自分の娘と庄三郎を救う武器となったのです。

 幼き頃に磨いた技は、どこかで役立つものですね。

 そういえば、私も幼い頃には石投げをよくしたものでした。

 その目的物に石があたると、よく微笑んでいました(つづく)。

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国東の桜(きっと羽根藩においても、このように美しく咲いていたことでしょう)