雫が石を穿つ

 上から落ちてきた雫(しずく、水滴のこと)が、石の凹面(表面が凹に窪んでいる)に衝突すると、そこに溜まった水とともに周囲に広がる際に空気を巻き込みます。

 この巻き込みによって渦巻きが形成され、さらに、その渦によって水と空気の摩擦が進むことで空気の塊が引きちぎられ、より細かく粉砕されることで、そこに光マイクロバブルが発生します。

 この光マイクロバブルは、非常に小さいことから、その水滴と一緒に石の隙間の中に侵入していきます。

 同時に、この光マイクロバブルは、自分自身が小さくなることによって、その内部において高温高圧現象を発生させることで、ますます、水の中に溶け込みやすくなります。

 その隙間の中に有機物があれば、それに電気的に付着し、より石の表面に接近します。

 そこで、その高温高圧化の影響を受け、さらには、その温度、圧力場の下で起きた化学反応によっても、石の内部は、より脆くなっていきます。

 雫が落ちる度に、このような現象が繰り返されることによって、その石は、より脆くなり、最後には、砕けて穿かれてしまうのではないでしょうか。

 しかし、このような現象と仕組みは、科学的に証明されてはいませんので、仮説に留まっていることも指摘しておかねばなりません。

 これも含めて、自然界には、いくつもの光マイクロバブルが発生している現象があるとおもわれますが、それらについても、その詳しい探究と、そのメカニズムの解明が必要ではないかとおもわれます。

「学則」第一条に示した意味

 これから、高野長英が、このフレーズを宇和島で開いた塾の「学則」の第一条に記したことについて、さらに分け入っていきましょう。

 この第一条は、塾生たち用に認めた文章でしたが、長英が、自らの苦難の学者人生において、必死で身につけてきた最も大切な教訓といえるものでした。

 かれは、これを古代西洋の文献から見出したと記しています。

 しかし、その文献が何かについては明らかにしていません。

 長英は、後藤家の三男坊として生まれ、代々医者として成り立ってきた高野家に養子に出されました。

 高野家としては、長英が医者となって家を継ぐことを期待していましたが、それに反して、かれは、兄とともに江戸に出て、最新の医学を学ぼうとします。

 その兄は東洋医学を、そして長英は西洋医学を志望しました。

 しかし、親に内緒で江戸に出たこともあって、按摩をして自活をしながら勉学に励みました。

 不幸にも、兄が病気で寝込んでしまうと、その看病をしながらも医者になっていくことに努めました。

 こうして、医学の道を進み始めた長英にとって、大きな転機となったのが、長崎の鳴滝塾においてシーボルトに師事したことでした。

 念願の西洋医学をシーボルト自身から直に学ぶことができた長英は、それこそ体を張って勉強し、語学を鍛え、論文を書いて、厚い信頼を得ることができました。

 しかし、ここでまた不幸が長英の運命を反転させます。

 それが、その「シーボルト事件」であり、その偉大な師は国外追放となり、弟子の長英は幕府の取り締まりからの「逃亡生活」を余儀なくされたのでした。

 長英の偉大さは、その中においても、決して学問を究めていくことを諦めず、常に、それを生活の中心に据え続けてきたことでした。

 朝起きてから夜るまで、それこそ寸暇を惜しんで西洋の学問に接していくなかで、専門の医学だけではなく、軍事、食物、経済、さらには哲学にまで及んだ広い学識を得るまでの知の巨人になっていったことに、かれの博識としての特徴がありました。

 この広い視野が、単に医者になることに留まらない全人的な人格形成を可能にしていったのではないでしょうか。

不屈の精神力

 そして、もう一つの重要な特徴は、ある意味で苦闘の逃亡生活のなかでも、決して自分を卑下しない、むしろその逆境を跳ね返すたくましい精神力を有していたことです。

 これは、即座に事を為すことができなくても、それこそ雫が石を穿つように、コツコツと忍耐力と粘りを発揮させて成就させていくという手法を確立させていくことにも結び付いていきました。

 それゆえに、少々の攪乱や迫害を受けても、それに屈することはない「知の力」を有していたのではないでしょうか。

 長英は、ある文書において、

 「後で後悔するのであれば、最初から、それを行うな!」

という主旨のことを認めていますが、これには、かれの強い意志が示されているようにおもいます。

 このように、広い視野を形成しながら、ひとつの専門を、それぞれ不屈に究めていき、それをコツコツと粘り強く最後まで積み上げていくことで、通常ではできそうもないことさえも成し遂げていく、このことを長英は、その学則に込めたのではないでしょうか。

 それゆえに、同じく「知の巨人」であった鶴見俊輔が、この学則が一番優れていると評価したのだとおもいます。

 ここには、同じシーボルトの弟子でありながら幕府のお抱え医師となって、後の東京大学医学部の基礎を築いた伊藤玄朴との本質的な違いがあります。

 その意味で、脚本家真山青果の『玄朴と長英』には、この長英の学者としての真の姿が描かれていないようにおもいました。

 また、玄朴のエピソードに関しては、脚本家馬場登の『わが行く道は遥けくて』のなかで、ある時、かれが悪ふざけをして長英を階段から突き落とそうとして、危うく落ちそうになり大声をあげたことが描かれています。

 これが事実であれば、落とす側と落とされる側には、小さくない本質的な隔絶があったのではないでしょうか。

 さて、玄朴のことはともかくとして、なによりも重要なことは、この長英の「雫の石を穿つ如く」の精神を、いかに内在的に宿させ、育てていくか、ということにあります。

 次回においては、そのことを誠に恥ずかしながらですが、光マイクロバブルの場合について、より深く分け入ってみることにしましょう。

 同時に、「雫が石を穿つ如く」が「光マイクロバブルが石を穿つ如く」とももいえるのかどうか、これについても考えてみることができるとよいですね(つづく)。

mann1224
マンジェリコン