素晴らしき映画

 私が好きな映画に『素晴らしき哉、人生』があります。

 これは、劇作家の倉本聰さんが、一番好きな映画であるといっていたので、私も視てみて、すっかり気に入りました。

 ジェイムス・スチュアート主演のクリスマスを舞台にした人生物語でした。

 あるとき、従業員のちょっとした手違いから大金が失われ、会社が立ち行かなくなってしまって自殺しようとしていたら、そこには先約の自殺願望の天使がいて、その人を思わず助けてしまいます。

 それが契機となって、その天使と一緒に人助けをするようになり、その最後には、自分も人々の善意によって助けられて、めでたく心が満たされたクリスマスを迎えるという物語でした。

 今のクリスマス前夜の時期にぴったりの映画です。

 じつは、昨日拝聴した『キネマの神様』という映画のなかに、この『素晴らしき哉、人生』のことが触れられていました。

 この脚本を書かれ、監督をした山田洋次さんも、若いころに、この映画を観て、心を動かされたからでしょうか、この映画のことが語られていました。

 この主人公を熱演されたのは沢田研二さんでしたが、当初は、ドリフターズの名優の「志村けん」の予定だったようです。

 その志村さんを想定して書かれた人物像を、沢田さんが演じたところがおもしろく、「志村さんだったら、どう演じていただろうか?」というおもいをいだきながら拝聴しました。

 とくに、最後のところで、東村山音頭を主人公が唄うシーンがありましたが、それは、志村けん風ではなく、若き沢田研二が演じた「ジュリー風」であったことも印象深いものでした。

 この志村さんは、流行り始めの新型コロナウイルスに感染して、すぐに亡くられました。

 最初からきちんとした感染対応がなされていたら、今尚存命で、この大役を立派に果たされていたのではないでしょうか。

 映画の中で、この主人公は、昔助監督をしていて、その後、身を崩してしまいました。

 そして映画を視ながら逝きたいと望んでおられましたが、それを演ずる前に亡くなったのですから、何とも、いいようがありませんね。


 さて、かつての二枚目沢田さんは、同じく山田洋次監督の映画『男はつらいよ』のなかで動物園のチンパンジー飼育係役を熱演されていました。

 おそらく、その大スターであった渥美清さんからも、キネマの手ほどきを得て、小さくない感化を受けられていたのではないでしょうか。

 そのことが、志村けんさんの代役を立派に果たされる誘因にもなったにちがいありません。

 さて、この『キネマの神様』は、『キネマの天地』に次ぐものであり、山田洋次ならではの得意映画のようで、その出来栄えは、『素晴らしき哉、人生』と同水準のものでした。

    いずれも、映画づくりにおける若い助監督が主人公であり、それを菅田将暉さんと中井貴一さんが熱演されていました。

 若者が、映画づくりの実践のなかで、悩み苦しみながらも成長を遂げていこうとする姿は、真に美しく尊いものであり、そこにキネマの真髄と原点があることをみごとに浮かび上がらせていました。

 これに関連して、山田洋次監督が、アメリカの若者について、しみじみと語った映画あります。

 それは、トム・ファンクス主演の『フォーレスト・ガンプ』でした。

 やや知恵遅れで足に障害をもっていた主人公が、母親の深い愛情に支えられ、立派に育って、それらを立派に乗り越えていく姿は素晴らしいものでした。

 そして、目の前の艱難辛苦を、ひたすら、まじめに、堂々と乗り越えていくことで成長していったガンプの姿は、アメリカ人の良心そのものを具現しているようにおもいました。

 みんなに支えられながら、みんなを支える、そこに喜びを見出すことこそがアメリカ人の典型的な良心であり、これらの映画において、そのことが切々と訴えられていました。

ある訪問者

 先日、地元のXさんがやってこられ、上記のような映画に在った「清々しさ」と同じような響きの話し合いがありました。

 これまでにも大変お世話になった方でしたので、その訪問を心から歓迎し、私としても、最近における取って置きの3つの課題の進捗に関する報告を丁寧に行いました。

 かれは、いつものように熱心にメモを取りながら、時折、自分の理解を深めるために、重要な質問をしてきたこともあって、この紹介は2時間余に及びました。

 それらを可能な範囲で紹介しておきましょう。

 その第一は、地元の地域資源を再生し、その産業化を、どう進めていくのかという話題でした。

 これについては、その千里の道における「第一歩」を踏み出したことを明らかにしました。

 ここ7、8年の試行錯誤を経ての踏み出しであり、今は、その二歩目というところでしょうか。

 おそらく、この途上においては、幾多の困難が待ち受けていることが予想されますが、「老人は、荒野をめざす」の精神で、ひるまず、一歩ずつ進んでいくことを述べると、かれもうれしそうでした。

  第二は、上述した第一の話題とは異なる、地域における未来型の農業の話題でした。

 すでに、この数年、2つの現場において継続的に遂行されてきました。

 その少しずつの成果が積り積もってきたようで、それが、実際に目に見えるようになってきたようにおもわれます。

 それらの過程を今振り返ってみると、それは、時代の進行において、かなり早すぎていたようで、それゆえに、その本質のすばらしさが見えにくかったのだ、とおもいます。

 このような、ある意味での錯誤や偏見は、光マイクロバブルの場合には、しばしば見受けられることであり、

 「今回も、そうであったのか!」

とおもうに至りました。

 時代の「先取り」とは、未来を意味することですので、私は、その未来性に関して、Xさんに、やさしく解説しました。

 かれは、地元での起業支援活動を長く続けてこられてきてだけに、それを聞いて非常に嬉しそうでした。 

 第三は、さらに未来性に富んだ話題でした。

 これについては、その最初の手がかりが見つかったという段階にありますので、率直に、その第一歩を明らかにしただけのことでした。

 しかし、これも、その未来性においては、夢とロマンに溢れた事象ですので、

 「これからの探究を楽しみにしていてください!」


と説明すると、かれは、これまでに、これと似た話に関わったことがあったようでして、それとの違いや優位性に関して、さらに論議が進むことになりました。

 新たな開発とは、このように既存のものとの比較のなかで、その優位性がどこにあるのか、そして、それが本質的に有用で、魅力あふれるものであるのかどうか、心底問われるものであり、そこに真の未来性があるのではないかとおもわれます。

 こうして、2時間余が過ぎ、窓外が暗くなってきたところで、かれは、こう切り出されました。

 「じつは、私からも、ひとつ報告したいことがあります」

 こういって切々と語られたことは、かれにとって非常に重要な内容を有していました。

 その報告を聞きながら、かれが困っている様子も窺えました。

 それから1時間余、詳しい説明があり、その事情を詳しく理解することができました。

 そして、その締めくくりにおいて、私は、かれに次のようにいいました。

 「Xさん、それは、長い目で観ると、一つの『攪乱現象』であり、それと同じようなことが、今の世の中でよく起きていて、そんなに珍しいことではないのではないでしょうか。

 大きな時代の流れ、歴史においては、ひつの泡のような現象だといってよいでしょう。

 それだけに、そのような事情を抱えられている貴方にとって、今日の私の話は、とても有意義だったのではないでしょうか!」


 「そうです。本当に励まされ、勇気づけられました」

 こういって、かれは幾分元気になって帰っていかれました。

 この余韻は、上記の映画を観た後の「清々しさ」とよく似ていました。

 今回は、これまでの主題と異なる「番外編」でしたが、このクリスマスイブに、『素晴らしき哉、人生』を再視聴するのもよいのかな、とおもいました(つづく)。


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           冬に咲いている高砂百合(東の庭