「評論・高野長英」
この評論の拝読によって、なぜ鶴見俊輔が、その晩年において、この評論を認めたのかが、少し解ってきました。
周知のように、かれは10歳代でアメリカに渡り、名門のハーバード大学の哲学科に入学した、とびっきりの秀才でした。
かれは、3年で大学を卒業し、しかも、その卒業論文を、当時のアメリカの戦争に備えての意味政策の下、囚人として捕らわれた状態で執筆し、それが教授会で特別に認められたのでした。
その後、あの大東亜戦争が勃発し、ドイツ語の通訳として海軍に入隊しました。
配属先のインドネシアでは、米英の短波放送を聞いて、それを和文の新聞にして発行するという仕事をしていました。
誰よりも早く、そして広く、米英の動きと文化を知って、ふかく分析できた軍人ジャーナリストだったのです。
その時のことを振り返って、かれは何度も脱走しようかとおもったそうですが、それを実行することができませんでした。
敗戦後は、いくつもの大学に勤めながらも、政府に抗議して辞職するという行為を繰り返す一方で、哲学思想や大衆文化に関する執筆を続け、小田実らとともに平和運動に身を投じ、実際にアメリカの脱走兵を匿うことも行いました。
また、加藤周一、大江健三郎や小田実らとともに「九条の会」に参加し、平和憲法を守り続けました。
そのかれが、晩年を迎えて、なぜ、高野長英の評伝を執筆したのか?
これは読み手の私にとって、この疑問は、最初から大きく、さらには、それを読み進めていくにしたがって、より大きく膨らんでいきました。
その主人公の高野長英は、今の岩手県水沢市の出身で、もともとは後藤家の次男坊として生まれ、代々医者であった高野家に養子として迎えられました。
長英は幼いころからオランダ医学の勉強に興味を抱き、兄と共に江戸に出て按摩で稼ぎながらも独学による立身をめざします。
かれにとって大きな転機となったのが、長崎にシーボルトがやってきて開塾をしたことでした。
ここで長英は、西洋医学を学び、めきめきと頭角を現しました。
シーボルトからは、クジラの研究において博士の称号を授与されました。
しかし、運悪くシーボルト事件が勃発し、そこから、かれの逃亡生活が始まりました。
決して筋を曲げない不屈を貫き、牢名主になりながらも、本来の医学と健康の書を紐解き、さらには軍事外交に関しても優れた見解を世に示し続けていったのでした。
その艱難辛苦の逃亡生活を繰り返しながらも、かれは、学問の道をひたすら歩み続け、「須らく雫の石を穿つ如くせよ」と弟子たちに、その真髄を教え続けました。
その結果、最後に到達した峰は、医者でありながらも、秀逸の軍事外交の専門家であり、わが国最初の優れた哲学者だったのでした。
鶴見と比較すると、医者であることは異なっていますが、思想家、哲学者としての共通項は少なくなく、その共同性が、鶴見による体系的で精緻、そして優れた思想性を有する評論の執筆に向かわせたのではないでしょうか。
また、鶴見は、長英自身の生き様が、次の明治という大きな時代を迎えることに小さくない影響を与えたことにも注視したのではないかとおもわれます。
それは、共に蛮社の獄において捕らわれた渡辺崋山との出会いと意気投合、そして宇和島藩において、長英が翻訳し、貴重な文献として遺した西洋の軍事外交の書は、村田蔵六(後の大村益次郎)に受け継がれていきました。
さらには、逃亡生活を繰り返しながらも、その隠遁先において医学、軍事外交、食の生活学、哲学をなどを同僚や弟子たちに教え、親交を維持し続けた学者、そして評論家であり続けたことが、次の時代を歩む人々に小さくない刺激と影響を与えたのではないでしょうか。
哲学者としての「同業二人」
長英が、常に、学問の道において「須らく雫の石を穿つ如くせよ!」と喝破したことに、鶴見は、その先輩としての爽快さと尊敬を抱いていたようにおもわれます。
哲学者になることをめざした鶴見は、すでに、その先輩として長英がいたことを知り、このうえなくうれしかった、そして、同業二人としての「誇りと励まし」を感じたのではないでしょうか。
こうして、鶴見俊輔が、なぜ、この「評論」を認めたのか、その理由が、少し解ってきたように思いました。
しかし、この考察は、その表面に留まったままであり、奥に潜んでいる深部には届いていません。
なぜなら、それは、哲学者、そして思想家としての鶴見俊輔の仕事を深く理解することができていないからです。
その次の一歩として、次の鶴見俊輔の本を手に入れました。
『ことばと創造』 河出文庫
『老いの生きかた』 ちくま文庫
よりふかく、おもしろく読むことができると幸いですね(この稿おわり)。
ローズマリー(前庭)
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