ホジュンの大成(たいせい)
このような、いわば大仕事は、一朝一夕にできることではありません。
それを成し遂げるには、遠い未来に向かっての強い意思力、すなわち「心医を目指す志」に基づく、いくつもの努力の積み重ねと人並外れた修行が必要でした。
妾の子として辱められてきた若い頃のホジュンは、放蕩のかぎりをつくし、最後は密貿易までして警察に捕まるという罪まで犯してしまいます。
そこから出直すために医者になると決め、名医のユ・ウィテのところに、最は水汲みとして従事するようになりました。
そこには、すでに同じく医者になるために修行をしていた3人の先輩たちがいました。
かれらにとって、ホジュンは嫌いなライバルでしたので、ありとあらゆる嫌がらせをしていじめました。
しかし、それには決して屈することなく耐え抜き、そのいじめを受ける度によりたくましく成長していったのでした。
そのなかで、最初に師事したのが、ユ・ウィテの同僚であった
ホジュンの最も優れた業績は、御医(王様の医師)を務めながら14年の長きにわたって膨大な医学書『東医宝鑑』を編纂したことでした。
その最後には、流刑の身でありながらも、一人で、それを仕上げたのでした。
この稀有な、そして内外に小さくない影響をもたらすことになった仕事は、なぜ、成就されたのでしょうか?
それまでの御医であれば、王様に仕えて医事を全うすることが最も重要なことでしたが、ホジュンは、それに真摯に努めながらも、そこに留まることができませんでした。
それは、師匠のユ・ウィテによって教えられた「心医」の道を究めたかったからでした。
王族には、お抱えの医師が何人もいて、最高級の薬剤があり、今でいう看護師がたくさん配属されていました。
それらの頂点に立って、王族の健康と病気の治療を行うことが重要な役割でしたが、それだけでは、心医を全うできないと考えていたのです。
王の統治は民のために行うものであり、その民は、医療費を払う金もなく、安い薬しか手に入りません。
栄養豊かな食べ物もなく、両班(やんばん)という特権階級によって、その収益を収奪されていました。
その民のために、医学書を編纂し、だれでも薬草を手に入れ、有効な治療ができるように、そして、古くから蓄積されてきた医術の伝統を明らかにし、後世に、その成果を遺そうとしたのでした。
すなわち「心医」をめざし、究めることが、『東医宝鑑』を発刊することだったのです。
この偉業は、なぜ成就されたのか?
ホジュンの医者としての成長は、ユ・ウィテとかれの友人の二人による教えが重要でした。
ユ・ウィテは山陰の名医であり、地域の人々の治療に貢献していました。
また、その友人の二人は、かつて内医院の医官であったアン元医師とサムジョク大師でした。
前者は、内医院を辞めた後は、山に籠って動物解剖を行いながら医学の研究をしていました。
また、後者は、誤って、らい病患者を殺してしまったことを悔いて、山奥で、らい病患者を集めて治す薬の開発研究をしていました。
これら3人の師匠から、ホジュンは、「心医」のあり方に関する真髄を教授されました。
ホジュンは、ユ・ウィテの水汲みをしている時に、アン元医師に頼み込んで、古典医学の体系と針の打ち方を学びました。
とくに、心臓発作を起こして死にそうなアン医師に、背中側から心臓に向けて針を打つ特別の方法を実践的に伝授されました。
この経験が、ホジュンの絶体絶命を何度も救い、針の名人になっていったのでした。
サムジョク大師からは、自分の命を投げ出しても、らい病を治す勇気と献身を学びました。
そして、ユ・ウィテからは、自らの死体を解剖せよと命じられ、まさに五臓六腑の腸を、朝鮮で初めて解剖することができたのでした。
それぞれが、心医の極意に達するための「試練と修行」だったのでした。
最後に、残されていたのが、実際に患者に接し、それを適切に治療して実践的に医術を磨いていくことでした。
知識としての医学を学んでいても、それを実践の場で生かすことができなければ、何の役には立ちません。
ユ・ウィテは、自分のところに依頼があった治療をホジュンにさせようとします。
その最困難が、宮廷の最高幹部の奥様の脳卒中の治療でした。
この役人は、なぜ、弟子に大切な夫人の治療を任せたのか憤慨し、ホジュンのことを信用しませんでした。
しかし、ホジュンの親身で、優れた治療方法に心を動かされるようになっていきました。
治療に必要な水を山奥にまで出かけて組んできたホジュンを、逃げたと勘違いして大騒ぎをしていた自分を恥ずかしくおもったこともありました。
そして、ホジュンとイエジンの懸命の治療によって、この奥様に意識が戻り、自分で歩くことができるようになったという感動的なシーンにも出会います。
そのかれが、内医院に入ったホジュンを影ながら支援していくのでした。
ホジュンのやり方は、第一に、直に患者に接し、治療方法を考え施すことであり、第二に、その治療法が解らない時には、過去の文献(中国の医療も含めて)を徹底的に調べることであり、第三に、それらを踏まえて創造的に適用することでした。
最後者の問題においては、伝染病が流行って危うい状態に陥ったときに、奴婢の使用人の友人の病状が改善したと聞き、そこから梅のエキスを治療薬としておもいつき、その伝染病を治めることに成功しました。
これこそ実践のなかで生み出されたアイデアだったのであり、それが、都と朝鮮全体を救ったのでした。
内医院において「心医」を究めていくことは、数々の陰謀と嫌がらせによって困難を極めていきますが、ホジュンには、それらを跳ね返す強靭な意志力と粘りがありました。
それによって、王様ほかの王族の病気を治し、その度に、小さくない信頼を重ねていったのでした。
ユ・ウィテ、アン元医師、そしてサムジョク大師らが託した「心医」の道を、ホジュンは、その強靭な意志力(すなわち「志」)と忍耐力によってみごとに歩んでいったのでした。
その行く先に待ち構えていたのが「小さくない成功」だったのです。
私たちが学ぶべきものは、ここ「志」であるようにおもわれます(つづく)。
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