老いの「覚悟」(2)

 「老いることには覚悟が必要である」、これは、推理小説作家として著名な森村誠一氏の言葉です。

 若い頃から、かれが師と仰いできた松本清張に続いて、共に慣れ親しんできた森村小説ですが、ある時サイン会で会ったときに、「あなたの小説は全部読んでいますよ」と告げると、さっと「ケルンの一石」とサインしてくださいました。

 すでに数年前に、この『老いの覚悟』の本を購入し、一読していたのですが、それが、最近になって目に留まることがあり、改めて読み返してみました。

 すると、どうでしょう。

 今の心境にぴたりと符合し、そして共鳴してくるではありませんか!

 本というものは、それを読むのに「ふさわしい時期」があることを改めて悟りました。

 かれによれば、覚悟とは、「決意の凝縮」であり、「人生という長い過程の中で、考え、選択してきた心構えの凝縮である」と定義されています。
 
 かれは、東日本大震災の悲惨な様子を観て、その「覚悟」を決めたそうです。

 私も、その3.11から約2か月後に現地入りし、その凄まじい惨状のなかで「覚悟」し、その復興支援に取り組むことを決意しました(詳しくは、本ブログ記事において示されています)。

 また、その年に前職場を定年退職しましたが、そのゆるみとそれまでの無理の反動で、68日間の入院生活をおくるはめになりました。

 一時は、生死を彷徨うこともあり、生きていること、健康であることをいやというほどに認識させられました。

 そのせいで、私の右足のひざ下の部分は切り落とされてしまいました。

 それが、身体を酷使してきた「代償の証明」であり、必死でその大病から抜け出しながら、「自分は生まれ変わった、新たな人生を歩もう!」と深く思うようになりました。

 その人生の10年が過ぎ、それらを凝縮させて決意する、すなわち「覚悟の時期」がやってきたのではないか、そう考えるようになりました。

 さて、森村氏によれば、覚悟には、次の3種類があるそうです。

 ①平常時の覚悟:平穏無事で不満がない、弛んだ生活をしている時の覚悟

 ②限定された時の覚悟:これまでの人生が限定を受けた時の覚悟。コロナで病気になり、店が倒産、職を失った時、あるいは、交通事故や病気で入院した時に、目の前が真っ暗になり、途方に暮れた時にしなければならない覚悟。

 ➂近い将来起きるであろう出来事に対する覚悟:余命を告げられた時の覚悟であり、強い意思の力が求められる覚悟、臨終に向かう覚悟である。

 この①と②が、そして、③については、臨終に向かうのではないのですが、世界規模において予期せぬことが次々に起こって、それらに立ち向かう「覚悟」に関する重要な認識も深めています。

 平常時が、常に非常時と隣り合わせなって生活を営むことが余儀なくされているのです。

 コロナでへたり込み、そして亡くなり、戦争で粉々に破壊され尽くし、さらにはスタグフレーションで苦しめられている、これらの負のサイクルが際限なく回っていて、より深刻で悪なれの方向に更新され続けているいるのです。

 何を覚悟したのか?
 
 その「心構えの凝縮の実体」とは、何か?

 1)その第一は、当面の重要な課題のひとつを、先に仕上げることを覚悟したことです。

 それは、世界と日本の経済が急激に変化していくなかで、日本の技術者教育は、どうあるべきか、そしてその中核となっていく高専が、どのような目標と教育を行っていく必要があるのか、それらをまとめ上げることです。

 周知のように、高専は、高度成長期における労働力不足に備えるために産業界の要請に基づいて設立されました。

 当初から、実践的な技術者の養成機関として位置付けられ、まじめに、その教育のあり方が実践的に探究され、そこから数々の高専特有の長所が生まれてきました。

 当然のことながら、その要請元の産業界が大きく変わっていきましたので、それに伴って高専と高専教育に関する中身も変化していきました。

 現場の即戦力型の実践的技術者から、創造性豊かな開発型技術者へ、さらにはグローバル型技術者へと、その指向が時代と共に、変わっていきました。

 そして今、コロナ、戦争、スタグフレーション、バブル経済の崩壊の可能性のなかで、その在り方が鋭く問われるようになってきたのです。

 この3年、その問題意識の下でさまざまな探究がなされてきました。

 それらを、そろそろ総括し、一文として認める時期がやってきたのではないか、その覚悟を決めて、日々を重ね始めました。

 この夏が終わるまでに、それらを仕上げて送付したいと思います。

 その第二については、次回において、ふかく分け入ることにしましょう(つづく)。

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グラジオラス(中庭)