ある創造的破壊から生まれた「突出」
「黄金の80年代」の終わりは、1991年の日本経済のバブル崩壊によって、その終止符が打たれました。
その10年余は、学生の就職がまったくの売り手市場であり、学生の就職先を決めていくことに少しの苦労もありませんでした。
どんなに成績が悪い学生の就職試験においても、企業から返ってきたのは、「成績優秀な学生を紹介してくださり、ありがとうございました」という合格通知でした。
高専全体としては、「専科大学騒動」が落ち着き、各高専における専攻科の設置が検討され始めていました。
この騒動における教訓は、雲上の方々が高専を担っているわけではなく、高専の未来を決めるのは、その現場における学生と教職員、そして保護者であることを深く自覚したことでした。
その理由は、「専科大学への名称変更」という、上辺だけの小手先の変革で、高専の重要な未来を切り拓こうとしたことにあり、その法案準備が進むなかで、内閣法制局から「大学でないものを大学と呼ぶことはできない」と釘を刺され、あえなく頓挫したことにありました。
すなわち、大学は教育研究機関であり、高専は教育機関でしかなかったことから、この問題を回避して「大学」へと名称変更することは、もともと不可能なことだったのです。
その見通しの甘さが、広く公にされては困ることから、次のような措置が図られたようでした。
①内閣法制局の見解は公にせず、別の理由で実現できなかったことにしたかったようでした。
実際には、私立短大協議会や専門学校の反対によって実現できなかったという流布がなされていたようでした。
②国立高等専門学校協議会(「国専協」)の内部においては、突然の挫折によって内部が紛糾し、さまざまな意見が噴出していました。
そのなかで、それまでの校長先決体制ではなく、教授会の自治を認めてもよいのではないかという意見さえ出てきていました。
それもそのはず、高専の校長のなかには、「次の入学式は、専科大学としての入学式になります」と保護者と入学生に公言した方や、学校の看板や封筒の印刷を専科大学に変えて作ったところもあったからでした。
③しかし、高専を「大学と同じ教育研究機関」にしていくことに関しては、ほとんど、まともな議論や検討がなされていませんでした。
すなわち、高専の長所を最高度に活かした「高専づくり」、さらには「大学づくり」という重要な課題を見出すまでには至っていなかったのでした。
この課題は、後に「高専大学構想(『私たちの高専改革プラン』、全大教)」として明確化されていきます。
④当時の文部大臣の二人(海部、藤尾)が二度にわたって「専科大学」への名称変更を行うという記者会見を行ったにもかかわらず、それが突如あえなく頓挫したことから、文部省や国専協の関係者のみなさんは、相当にバツが悪かったのではないでしょうか。
そのせいか、その直後に、高専に「専攻科を設置する」ことが、ほとんど何も議論されないままに、そっと決められたようでした。
「専科大学への名称変更」という、ある意味で小さくない創造的破壊としての「騒動」から、「一つの突出」が生まれた、それが「専攻科の設置」だったといってよいでしょう。
専攻科であれば、既往の高専設置に関する法案のままで、その設置が可能だったからでした。
今振り返れば、そうしなければ、その騒動を治めることができないほどに混乱していたのかもしれませんね。
「創造的技術者論」
さて、そこで高専に専攻科を設置した時の教育目標をどうするかの議論がなされました。
その中心に、当時の国専協の代表者であったY氏を中心にして検討されたのが「創造的技術者論」でした。
高専の1年から5年までを「本科」と呼び、そこでの教育目標が「実践的技術者の養成、豊かな人間性」の2つでしたので、これらを止揚する目標として、その「創造的技術者の養成」が示されたのでした。
しかし、この教育目標は、本科の「実践的技術教育」の上位概念としての「創造的技術者養成」という用語設定はあり得たとしても、その意味がよくわからない、具体的に何をどうすればよいのかがわからない、という小さくない問題点を当初から有していました。
もともと、高専の現場では、お題目として掲げるのは良いとして、あまり深く考えようとはしないという傾向が蔓延っていましたので、そのことが大きな問題になることはありませんでした。
また、それを深く探究するという事例もほとんど出現することはありませんでした。
さらに、大学の良心的な先生方からは、「創造性を発揮することは、当たり前のことなので、それを教育目標にするのはふさわしくないし、わかりにくい」という声も寄せられていました。
現に、「創造的技術者とは、どのような技術者教育のことをいうのですか?」と尋ねると、その教育の当事者が、立ち往生してしまう、あるいは「私はよくわからないので、学校のホームページに書いていますので、それを読んでください」という居直り発言に出会うこともありました。
たしかに、この技術者論は、わかりにくく、そうであれば、それをより解りやすく本質を究めていくということにおいて十分に発展していかなかったのではないでしょうか。
最近では、「高専機構」の理事長の挨拶のなかにも、この用語が見出されないようになっていますので、これは、どう解釈したらよいのでしょうか?
さて、その教育目標のお題目はともかくとして、専攻科教育の実際は、どのように実践されていったのでしょうか。
私は、高専の本科において、最も実践的な技術者教育ができるのは、卒業研究ではないかと思ってきました。
まじめで素直、おとなしい高専生と一緒に取り組んだ卒業研究は魅力的であり、かれらは、それによってみごとに成長していきました。
しかし、その期間はわずかに1年しかなく、本格的に成長し始めたと思うことができるようになったころには、卒業が間近に迫っていました。
せめて、あと半年、願わくば1年あれば、もっとすくすくと成長できるのに、と悔しい思いを毎年のように感じていました。
専攻科の設置は、その願いを叶えてくれると、心底から喜んだものでした。
そして、実際に専攻科生を迎えてみると、本科生からは3年の教育計画を設けることができるようになりました。
そこで、次の具体化を試みることにしました。
1年目(本科5年生) 高専、大学間の研究会における講演発表、学会論文集と同一要領で卒業論文を執筆と提出 ➡ 大学学部生と同等、もしくは、それ以上の実績を重ねる
2年目(専攻科1年生) 高専、大学間の研究会における講演発表、支部学会、学会全国大会での講演発表 ➡ 大学院修士課程1年生と同等、もしくは、それ以上の実績を重ねる
3年目(専攻科2年生) 高専、大学間の研究会における講演発表、支部学会、学会全国大会、国際学会での講演発表、専攻科学位論文の執筆と提出 ➡ 大学院修士課程2年生と同等、もしくは、それ以上の実績を重ねる
これらの具体的目標は、高専や大学の関係者にとって、わかりやすい比較を可能にしたものでした。
これらの具体的目標は、高専や大学の関係者にとって、わかりやすい比較を可能にしたものでした。
もちろん、より深い本質的な目標は別に定められていましたが、それについては、ここでは詳しく触れないことにしておきましょう。
そこで、実際に、専攻科生、本科5年生と手を取り合って、上記の目標の達成が可能かどうかを検証していくことにしました。
その際、その実践的な探究こそが創造であり、創造的技者とは、新たな未知の課題を探究していく技術研究のことではないかと思うようになりました。
その達成の可否については、専攻科生の資質と個性が関係していますので、さまざまな到達具合がありましたが、総じて確認されたことは、それがほぼ可能であり、立派な成就がなされたことでした。
本科生も専攻科生も、かれらの資質や能力に則した教育を行っていくことで、十分に大学院生や学部生に対抗できることが非常に明確になり、そこに高専教育における未来の手ごたえを感じました。
すなわち、専科大学への名称変更という無茶から生まれた創造的破壊から、小さな専攻科設置という突出が生まれ、それが徐々に大きな流れを形成していくようになっていったのでした。
折しも、わが国にも技術者教育認定機構ができるということで、それぞれの専門学会において対応する委員会が設けられるようになりました。
当時、私は、土木学会の土木教育委員会における高等専門教育小委員会の幹事長(後に委員長)というポストにいたことから、その教育認定委員会の委員にも選出されていました。
そこで、土木学会における教育認定基準づくりにも参加することになりました。
また、その後は、実際の審査にもかかわるようになっていくのですが、この活動によって大学における教育内容についても知ることになり、それと高専教育の比較を行うことができるようになりました。
そこで、実際に、専攻科生、本科5年生と手を取り合って、上記の目標の達成が可能かどうかを検証していくことにしました。
その際、その実践的な探究こそが創造であり、創造的技者とは、新たな未知の課題を探究していく技術研究のことではないかと思うようになりました。
その達成の可否については、専攻科生の資質と個性が関係していますので、さまざまな到達具合がありましたが、総じて確認されたことは、それがほぼ可能であり、立派な成就がなされたことでした。
本科生も専攻科生も、かれらの資質や能力に則した教育を行っていくことで、十分に大学院生や学部生に対抗できることが非常に明確になり、そこに高専教育における未来の手ごたえを感じました。
すなわち、専科大学への名称変更という無茶から生まれた創造的破壊から、小さな専攻科設置という突出が生まれ、それが徐々に大きな流れを形成していくようになっていったのでした。
折しも、わが国にも技術者教育認定機構ができるということで、それぞれの専門学会において対応する委員会が設けられるようになりました。
当時、私は、土木学会の土木教育委員会における高等専門教育小委員会の幹事長(後に委員長)というポストにいたことから、その教育認定委員会の委員にも選出されていました。
そこで、土木学会における教育認定基準づくりにも参加することになりました。
また、その後は、実際の審査にもかかわるようになっていくのですが、この活動によって大学における教育内容についても知ることになり、それと高専教育の比較を行うことができるようになりました。
次回は、その比較についてより詳しく分け入ることにしましょう(つづく)。
コメント