「嘘をつかない」ことの意味

 解剖学者の養老孟司さんが、ソニーの社員を前にして講演されたネット番組を拝聴しました。

 私の場合、これは重要だと思うと、それを何度も繰り返して聴き、読むという行為を行い、その内容を頭の中に叩き込むことを常としています。

 私の脳は、すぐには、そのよいことを刻み込んではくれないようで、その繰り返しのなかでようやく、それを実行してくれるようになります。

 そのひとつに、「物は嘘をつかない」という名言がありました。

 それが車であれば、東京でもニューヨークでも、同じように走る、これが、嘘をつかないことなのだと仰られていました。

 これに対して、人間は、嘘をつく、昨日いったことが、今日は変わる、とても、それを信用できない、つまり、人間は嘘をいう動物である、これが彼の主張でした。

 しかし、同じ人間でも、死体は嘘をつかない、昨日解剖していたところが、今日までそのまま残っている、それだから安心して解剖ができる、といっていました。

 盛田さんも、本田さんも、そのことを暗黙のうちに認識していて、ウオークマンやエンジンを造ったわけで、「嘘はつかなかった」のです。

 ところが、ここに嘘が入り込んでくると、おかしくなる、ものづくりではなくなってしまう、という鋭い切り込みをなさっていました。

 このことは、不正会計を繰り返したT社、嘘のデータを示してごまかそうとしたM自動車会社などを見れば、すぐにわかりますね。

 まさに、ご指摘の通りのことが次々に起こりました。

 今や、世界の企業100社には、トヨタをはじめとして、わずかに3社しかないまでに落ち込んでしまいました。

 一人当たりのGDP生産量においては、お隣の韓国に抜かれてしまいました。

 嘘をつかず、よいものはよいものとしてつくり、売る、この嘘をつかない「ものづくり」精神からの離反が、今の弱体化を招いているのではないかという指摘は、的を射ているのではないでしょうか。

 円高になると労働者の賃金を実質的に減らし、さらには非正規社員を雇うことで利潤をどこまでも増やすことに傾注する、一方で円安になると黙っていても利潤が増える、この輸出依存型の経済体質にどっぷり漬かってしまい、かつての日本が得意としていた「ものづくり」精神の重要性を忘れてしまった、それが平成の30年ではないでしょうか。

 世間では、これは「失われた30年」と呼ばれています。

 養老先生は、その源流にまで遡って「嘘をつかないものづくり」の大切さを説かれたのだと思います。

 純粋に必要なものを探索する、すなわち、ニーズを探る、そこに自信を持つことの大切さについても重要な示唆をなされていました。

 ずばり、本質を突く、さすが養老先生ですね。

        「よいものはよい」で勝負する
 
 決して嘘をつかず、「よいものはよい」で勝負する、これは純粋に「よいもの」つくる技術力によって勝負する、戦うということを基本にすることであり、そこでは、ストレートに技術革新力の真価が問われることになります。

 日本人の特質は、この「よいもの」づくりにおいて、優れた知恵と工夫を発揮できることにあり、それを自ら体験し、模範を示していたのが、前記事において示した偉大な先輩たちでした。

 それゆえに、不況はチャンスの到来、厳しい規制があるほど技術のブレイクスルーが可能になる、大衆が求めているのは、これだ!

が、わかるようになるのではないでしょうか。

 この困難のなかで、それを突破できる技術力こそが求められていることであり、それを洗練させ、みごとなまでに仕上げてきたのが、先達だったのだと思います。

 こう考えると、コロナ下の今はチャンス、嘘をつかずに、よいものをつくる、その絶好の機会を迎えているのではないでしょうか。

 視点が変わると、見えてくるものまでが変わってしまいます。

 まさに、「禍を転じて福をなす」です。

 目の前のものだけを見るのではなく、もう少し俯瞰して、大空から下を観ると、本当のニーズとは何か、それをどう実現すればよいのか、が観えてくるのではないでしょうか。

 さっそく、私も、その視野で「よいものづくり」を再考してみましょう(つづく)。

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水仙