歴史のなかの「長英」

 二人劇「玄朴と長英」のラストは、長英が玄朴邸を去った後に、玄朴が「じつは、お前(長英)が好きだったのだ!」と初めて内面を語ったシーンでした。

 このセリフをいうために、この二人劇が始まり、金を貸してくれ、貸さないの問答が展開し、そして終わりへと進行していったのです。

 最後には、土下座をして頼み込んだ長英でしたが、それでも玄朴は、その申し出を受け入れることはできませんでした。

 そう断られても、長英は、恨み言を少しも吐露せずに、そのまま静かに玄朴と別れていきました。

 その後、逃走資金を貸してもらえなかった長英は、自分の顔を酸で焼いて変装してまでして、幕府の追跡を逃れ続けたのでした。

 そんななかでもかれは、町医者として大衆の治療を続けながら、軍事と政治についても研鑽を重ね、当時としては最高峰の優れた文書を作成されました。

 それゆえに、これを忌み嫌ったのが幕府お抱えの学者や役人たちであり、その中心には林大学頭や奉行の鳥居耀蔵らがいました。

 しかしかれは、この執拗な排撃と追跡に決して屈することはありませんでした。

 それは、真金よりも硬い信念を宿していたからでした。

 つい最近、医学史家としても著名なK先生(K整形外科病院、中津市)によって、中津市の林家土蔵の中から、長英の中津藩主宛の手紙が発見されています。

 そのなかで、長英は、次の真意を述べておられたそうです。

 「途中で止めてしまうのであれば、最初から、それをやらない方がよい!」

 シーボルトに弟子入りし、その師匠が罪を犯し、国外追放になっても、決して彼は転向せず、師匠の教えに真摯に応え続けることを選びました。

 そのために自分の身を追われるようになっても悔いはないと信念を持ち続けていたからでした。
 意思の鍛錬

 学問的確信と医者としての実践が、そして渡辺崋山らとの交流によって、かれは、自分の信念を貫くことの重要性を日々洗練させていったのだと思います。

 また、そのことを窺わせるかれの想いが、群馬県の民家から発見された文書にも示されていました。

 「水滴は、巌(いわ)をも穿(うが)つ」

 周知のように、水はすべての物質を溶かします。

 しかし、それには長い年月が必要です。

 小さくて柔らかい水滴であっても、それが長い時間において落ち続ければ、やがて硬い巌にも穴をあけ、最後には、それを壊すことができます。

 長英は、硬い巌であっても、水滴のように長く、ぽつり、ぽつりと落ち続けることによって、最後には、それを破壊してしまうという粘り強い意志力と確信を、この言葉で表現したかったのだと思います。

 これこそ、長英が歴史のなかに遺し、伝えさせ続けたものだったのではないでしょうか。

 決して、自説を曲げず、安易には転向しない、不屈の精神こそが、後世の方々の胸に響き、刻まれてきたのだと思います。

 つい最近まで、この世の中は、「今だけ、金だけ、自分だけ」の新自由主義の風潮が我が物顔に振舞っていました。

 長英が教えたことは、この思想とは、まるで真反対です。

 私たちが学ぶべき思想は、どちらでしょうか?

 その答えは、どちらが長く歴史の中で生きているかを比較してみれば、自ずと明らかなことではないでしょうか(この稿おわり)。

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ジャンボ化したMOネギ(GFH2)