「名優」池田直樹

 バリトン歌手池田直樹さんの特徴は、声の柔らかさにありました。

 このような声を発することができるようになるまでには、相当の修行と年季を重ねと来られたのでしょう。

 私が知っているバリトン歌手は、その圧倒的な声の張りと大きさで聴衆を納得させていました。

 たとえば、私の家内(大成京子)と沖縄で共演した山田健さんは、その典型的なバリトン歌手でした。

 かれは、日本人には珍しく、ミラノのスカラ座における正規の楽団員として活躍されていました。

 家庭の事情で止む無く日本に帰って来られたそうですが、そのまま活躍されていたら、稀に見る歌い手になっていたでしょう。

 それから、池田直樹さんのもう一つの特徴は、聴衆を惹きつけるみごとなテクニックを持たれていたことでした。

 さすがに、何百回というコンサートを演じてきた方だけあって、みごとな解説と歌唱力でした。

 最初の歌は、「みなさまお馴染みの『見渡せば』です」といったものの、聴衆のみなさんは、ぽかんとしていました。

 「見渡せば」という曲名は、誰も聞いたことがなかったからでした。

 首を傾げているうちに、それが唄い始められて、ようやくみなさんは、「結んで開いて」の歌だったことに気づいたのでした。

 この作曲は、かの有名なジャンラック・ルソーであるという紹介もなされました。

 知らない曲名をいって、その曲で、知っている歌だと気づかせる、これが最初の巧みな演出だったのです。

 さらに、この演出は功を奏するようになります。

 それは、「結んで開いて」を聴衆と一緒にするように促したことでした。

 最近は、この手の運動をボケ防止によく用いられています。

 約7年前に、私がK整形外科病院に入院していた時には、孫のしらたまちゃんがやってくると、一緒に、この「結んで開いて」を行い、歌も聞かせてくれました。

 そして、この歌と手の動きと連動して手を叩くことも加わり、一瞬にして会場がひとつになっていきました。

 こうして、簡単なひとつの歌のみで、みごとな聴衆掌握をやってのけたのでした。

 そのことを確かめて、タイマーによる時間設定を再度修正し直しました。

 そして、かれの工夫は、大分県人の心のなかまで分け入っていきました。

 それが、滝廉太郎作曲の『荒城の月』でした。

 滝は、日本人として3番目の留学生としてドイツのライプチヒ音楽院で作曲を学びました。

 しかし、その途中で結核を患い、止む無く帰国、そして23歳の若さで亡くなりました。

 かれが、そのままドイツに留まり、生きながらえていたら、おそらく日本を代表する大作曲家になっていたはずです。

 たくさんの作曲がなされた楽譜が、結核で移ると考えられて、そのほとんどが焼き払われたそうですが、せめて、それが残っておれば、さらに滝廉太郎の伝説は深まっていたでしょう。

 「もういくつ寝ると、お正月・・・」や「雪やこんこん、あられやこんこん・・・」、これらも、かれの作曲あることが紹介されました。

 かれが聴衆を惹きつけた第二の特徴は、その仕草でした。

 歌と共に、その振付を巧妙に行うので、私たちは、その情景を頭のなかで描くことができ、より一層歌の理解が進んでいきました。

 声と動作の二重演出ですから、耳と目で追うことができたのです。

 声だけではほとんど不可能な演出でしたので、さらに聞き手が引き込まれていったのです。

 「荒城の月」の後に歌った二曲がユニークでした。

 その第一は、佃煮になった小魚の話、そして次は、ユーモレスクの曲に載せた替え歌で、池袋前の西部と東部のデパートの話が唄われていました。

 東口を出たところに西武デパートがあり、反対に西口を出たところに東部デパートがあることを題材にして、いったいどうなっているのだという、おもしろい歌で、聴き手の頭も混乱するほど面白おかしい歌に仕上げられていました。

 そして締めは、モーツアルトの「魔笛」のなかから、ザラストロのアリアがドイツ語で歌われました。

 さすが、名歌手と共に名俳優を演じていたのが、池田直樹さんだったのです。

 
伊藤玄朴役のバリトン歌手

 そのバリトン歌手が、高野長英の相手役の「伊藤玄朴」になって二人芝居を演じるというのですから、この池田直樹さんの能力は人並みではないと想像していました。

 コンサートが終わって、それを告げた後に舞台を去る時のかれに台詞が洒落ていました。

 すっと前に出てきて顔を上げ、こういったのです。

 「メイクを急がなければ・・・」

 これには、会場から笑い声が起こりました。

 ここまで考え抜いた、かれの粋な演出に感心しました。

 次回は、私の長英の思い出を辿りながら、そのみごとな演劇ぶりに分け入っていきましょう(つづく)。

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ホトトギス