出発前のアグリ作業

 GFH1のBレーンのポンプが正常に動き始めたので、購入していた逆止弁を使う必要がなくなりました。

 おそらく、その配管の途中にある逆止弁のところをより強く締めたことで空気を吸い込まなくなり、ポンプ内の水が地下タンク内に落ちなくなったからだと思います。

 そのことを確かめて、タイマーによる時間設定を再度修正し直しました。

 これによって、GFH1は、すべて復旧、これからは、せっせと苗を移植していくだけになりました。

 すでにAレーンにはかなりの移植がなされてきており、その6割方は苗で埋まってきました。

 また、Bレーンのおいてもセロリが約60株、大葉が20株などが移植済みです。

 いずれも、ハウスの温室効果のせいでしょうか、定着率がよく、成長を遂げ始めています。

 その後は、七島イの一部を収穫して、一連の作業(下部においての七島イの切断、根の洗浄、株分け)を行い、明日は、それをGFH1内のB水路に投入します。

久しぶりの演劇鑑賞

 これらを終え、午後からは出かけるので、その準備を始めました。

 まずは、共同研究を行っているW先生に、先日までに製造していた試験水を用意し、ついでに、家内が自家製セロリを摘んで箱詰めにしてくれました。

 健康を大切にされている先生ですので、初物の自家製セロリの美味に心を動かされることでしょう。

 午後2時頃に、孫のユッツに見送られて、家内と相棒とともに車で中津に向かいました。

 最初の訪問先は、K整形外科病院の介護老人保健施設Nへ、試験用の装置を運び込みました。

 次は、例によって馴染みになったパン屋「魔法の樹」へ、午後三時過ぎという時間帯がよくなかったのか、かなりのパンが売り切れていました。

 そこで、ユッツが好きな「パンダパン」と「コアラパン」を買い、私どもは1本だけ残っていたバケットほかを籠に入れました。

 これらを買い終えて、丁度良い時間帯になりましたので、『玄朴と長英』の演劇が開催される中津市文化会館に向かいました。

 会場は、すでに満席に近く、久しぶりに大勢の方々のなかに入っていきました。

 じつは先日、K整形外科病院のK理事長に面会した際に、この演劇があることを紹介されました。

 K先生は、実質上の実行委員長の役目を果たされたようでしたので、その観劇を勧めてくださいました。

 コロナ下において、一度決められた期日が延期となり、二度目の開催でした。

 しかし、この開催についても、コロナ下での危険性が指摘され、それらに対して、K先生は、必ず減るから大丈夫、そうでなかった場合には私が責任を取るから心配しないでくださいと、みなさんを説得されたのだそうでした。

 このKの予測がみごとに的中し、コロナ感染者ゼロのなかで、この演劇の運びとなったのですから、K先生は、またひとつ株を上げたことになりますね。

 さすがです。

 しかも、劇団側から提示された入場料の金額は8000円でしたが、これでは人が集まらないという判断で、その半額という大決断がなされました。

 当然のことながら、「それでは無理です」という声が、劇団側と主催者側からたくさん出されたそうです。

 それらに対しても、K先生は、「自分が責任をとるから大丈夫」といって説得をなさったそうです。

 劇団の代表者は、来年で90周年を迎える前進座で大活躍をなさっていた嵐圭史さんであり、かれが涙ながらの感謝の手紙をK先生に送って来られたそうです。

 この演劇も、コロナのせいで、ことごとく公演が中止されていたからでした。

 ここで、なぜ、K先生が、そこまで梃入れをしたのか、読者はふしぎに思われることでしょう。

 じつは、K先生は、医学史の大変な専門家でもあり、とくに、大分県中津市を中心にした蘭学医学者たちの歴史発掘をなされ、何冊もの本も出版されています。

 杉田玄白とともに、あの『解体新書』を著した前野良沢は中津藩の医師であり、その普及を行ったのが、慶応大学の医学部を創った福沢諭吉だったこともあり、その医学史の話になるとK先生はますます流暢になり、決して留まることはありません。

 当然のことながら、高野長英と伊藤玄朴についても詳しく、K先生は、長英の出身地である岩手県水沢市(風鈴が有名)の生家に三度も行かれたそうです。

 高野長英といえば、シーボルトの一番弟子であり、二番目が伊藤玄朴だったのです。

 それゆえに、二人は、シーボルトの下で西洋医学における「蛍雪の功」を成すことができました。

 しかし、この二人の運命は、まるで異なった方向に転じていきました。

 シーボルトの国外追放を受けて、その弟子たちの逮捕が始まりました。

 長英は、その一番弟子でしたので、幕府から「追われる身」になりました。

 その時に、長崎から逃げ出して最初に隠れていたのが中津藩だったのです。

 つい最近になって、旧中津藩の林家の土蔵のなかから、貴重な長英の手紙が発見されました。

 それによれば、約40日間、中津の林家の蔵の中に、かれが隠れていたこと、そして、中津藩で雇ってほしい旨の手紙を書いていたのです。

   また、そのなかには、「途中で物事を止めるのであれば、最初からするな!」という、当時の長英の心境も記されていたそうです。

 この文書は、かなり前に、K先生のところに届けられていたそうですが、多忙を極めている先生は、その間、その資料を紐解く機会がなかったそうです。

 しかし、それを読んで、今度は先生が吃驚、中津においいて長英が隠れていた、おまけに士官を願い出ていたというのですから、まさに「歴史大発見」になったのでした。

 かねてからの中津蘭学の医学史、そして長英の手紙が見つかり、先生は、その長英に因んだ演劇『玄朴と長英』を、ぜひとも、蘭学史の第二の故郷ともいえる中津市で開催したいという信念に駆られたのでしょう。

 それが、上記の尽力へと結びついていったのでした。

 その先生からは、当日の入場券が3枚送られてきました。

 この玄朴を演じられた池田さんは、二期会のバリトン歌手であり、この演劇の前に、かれの独唱もあったことから、特別に先生から家内にも来てほしいという依頼がありました。

 先生は、名誉院長であったS先生と共に歌が好きで、家内のCDを病院内で定期的に流されていたこともありました。

 また、家内を迎えてコンサートを、同じ中津市文化会館で開催していただいた実行員会の責任者をなされたこともあり、家内の歌の良き理解者でもありました。

 そんなこともあり、家内に玄朴役の池田直樹さんのことを尋ねてみたら、何度か、かれの隣で歌ったことがあるといっていました。

 当時、家内は、東京混声合唱団の歌手でした。

 彼女曰く、

 「池田直樹さんの独特の眼つきは記憶に残っている」

のだそうでした。

   たしかに、池田さんは、長英役の嵐圭史さんとは異なる独特の眼つきをなさっていました。

 歳をとっても、目の方は変わらないものなのですね。

 さて、開演して最初の演目は、その池田直樹さんのバリトン独唱でした。

 美しい声で、かれのこみっかるな動作を交えた歌いっぷりに、会場のみなさんは、魅入られていました。

 次回は、そのすばらしいコンサートについての感想から語ることにしましょう(つづく)。

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ハゼの実