「七島イ」産業革新の課題(まとめ)
これまでに、5つの課題を詳説してきましたので、ここで改めて、それらを、次に要約しておきましょう。
①生産農家の減少に伴い、生産額が激減し、今や最大時の0.04%に低下、一方で多方面から需要の声が寄せられ、極端なギャップが拡大している。
②七島イ農業の困難のなかで、新たな農家が定着せず、地場産業としての展望が見出させない。
③毎年、計画的に安定した生産量を十分に確保可能な「七島イ農作技術」において「未発達」な部分がある。
④七島イ「二期作」が、さまざまに試みられてきたが、いずれも成功には至らず、いわゆる「二期作ブレイクスルー」が実現されていない。
⑤外国産「七島イ」の輸入増大の影響を受けて、国内七島イ栽培がさらに縮小傾向に陥いるという現状を打破するための戦略と戦術を具体的に検討し、有効策を講じる必要がある。
課題解決の方法
本日から、上記の①~⑤に関する課題解決法を具体的に考察していくことにしましょう。
その検討を開始するにあたり、一枚の象徴的なスライドを示します。
七島イに関する需要問い合わせがあった、検討がなされてきたところ
左上は島根県出雲市のI神社正殿です。
私は、この改築中に、地元後援会の有力者のご尽力で、この正殿の一番高いところまで上って見学したことがあります。
この時、ご利益があるようにと、いくつかのグッズをいただきました。それらをカバンの中に入れて持ち歩き、その発揮を期待し続けています。
なかでも、鈴が気に入り、歩くたびに、これが鳴って、ここちよさを覚えています。
この正殿の畳の間に七島イを入れることができないかという問い合わせがあったそうです。
大変名誉なことでしたが、正殿の畳の間をすべて七島イで埋めるには、七島イの生産量が圧倒的に不足していたことから、その期待に応えることができませんでした。
左下は、S城正殿です。もともと、七島イは、琉球産ですので、それが由来で「琉球畳」とも呼ばれてきました。
この正殿の場所は、私が勤務していたころは、琉球大学の本部があった場所であり、ここに生きたハブが飼われていましたので、何度か、そのハブを見に行ったことがあります。
私が勤めていた理工学部土木工学科のビルからは、歩いて200mの位置に、その本部がありました。
この正殿が突如消失し、大変なショックを、みなさんに与えました。
その再建が検討されています。
消失前の正殿を見学した際に、たしかに畳の間があり、それを手で触ってみたことを思い出します。
すでに解説してきたように、現在の沖縄においては、七島イそのものが、まったく栽培されていません。
沖縄市にある畳屋さんと懇談したことがありましたが、七島イを見たことがない、昔は、琉球畳の原料として使用されていたことは、かすかに記憶のなかにあるという程度のことでした。
つまり、七島イそのものが、現在の沖縄においては忘れられた存在になっているのです。
しかし、このS城再建の問題が国会においても議論されているようで、ある熱心な国会議員の方が、「本来の琉球畳」を復活させようとして活動されているようで、その新聞記事を見たことがあります。
これは、「国東での七島イの再生」➡「琉球畳の復活」➡「S城正殿への設置」➡「沖縄での七島イ再生」へと発展していく可能性があるように思われます。
もともと、国木半島における七島イの定着、産業化の発端は、杵築藩の侍が、その苗を持ち込んだことに端を発しており、この半島が、その生育環境に適していたことに由来しています。
狭い田圃において米を栽培するしかなかったところで、短期間に高採算性を有する七島イが、国東の人々に適合していったのだと思います。
そして今や全国で唯一の七島イ生産地において、それを再生・復活させて、そう遅くない時期に「沖縄に帰してあげる」必要があるのではないでしょうか。
沖縄産の七島イで、琉球畳を製作できるようにする、これは、国東にとって重要な歴史的、そして国宝的課題ではないかと思います。
次回は、宇治のB等院鳳凰堂ほか、右側の建造物と七島イの関係について分け入ることにしましょう(つづく)。
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