マイクロバブルの「量と質」問題

 前記事において、光マイクロバブルブレイクスルーの第二過程を考究するにあたって重要なこととして、マイクロバブルの発生において、その量の多さを論ずる前に、その質を明らかにすることが重要であることを指摘しました。

 それは、より難しいことだったからか、それには真正面から立ち向かうことなく、どうやら、そのほとんどが「安き」に流れていったようでした。

 まず、理論屋のみなさんは、サイズが同じであれば、どんなマイクロバブルであっても、すなわち、異なる発生法であっても、そのそれぞれは、みな同じだという仮定に基づいて、その構築を行いました。

 これは、主として物理学系の究明であったことから、マイクロバブルがもたらす化学的特性を考慮することも考慮されていませんでした。

 マイクロバブルの発生装置が異なれば、そこから発生するマイクロバブルの性質も異なっているはずですが、それだと、当然のことながら、その理論の立脚点を失ってしまいますので、「マイクロバブルであればみな同じ性質を持っている」と考えざるを得なかったのだと思います。

 この誤った仮説が流布されていくようになると、今度は、実験屋の方でも、同様の考えを持つようになる傾向が生まれました。

 それは、なぜでしょうか?

 私どもが1995年に、超高速旋回式マイクロバブル発生装置を開発して公表したことから、その影響を受けて、さまざまなマイクロバブル発生装置が、それこそ雨後の竹の子のように出てきました。

 新たなモデルが出現すると、それに似た装置を考え、製造することは、そんなに難しいことではありませんので、このタケノコ現象が出現したのだと思います。

 その装置開発に挑戦することは、むしろ良いことであり、当然のことながら、その開発によって私が発明した装置以上に優れたものが出てくることは非常に好ましいことといえ、その可能性を期待しました。

 しかし、その成就には、私が費やしたほどの苦労、あるいは、それ以上のものが必要であり、簡単には、新しいアイデアも知恵も出てこなかったのではないかと思います。

 ただし、優れた天才が開発を行えば、それほどの苦労は必要ないと思いますが、その天才は、未だに出現していません。

 せっかく開発したのですから、その装置によってマイクロバブルの性質を究明していただくことで、その開発の成果が本質的に問われることになるのですが、そのほとんどが、その評価をしないままで終わっているのは、残念なことです。

 それでは、なぜ、この現象が発生するのでしょうか?

 その理由は、次の通りです。

 さまざまな方法でマイクロバブルを発生させる装置を開発することは、ある意味でより容易なことです。

 しかし、そのマイクロバブルの物理化学的性質を究明することは、その開発よりもはるかに難しいことなのです。

 その究明には、ある程度、「マイクロバブルとは何か」についてのかなりの理解が必要になります。

 そのかなりの理解が難しく、それを得るのに少なくない時間と労力を要するからです。

 先行的には、私どもが明らかにしている光マイクロバブルの物理化学的特性が明らかにされていますので、それを基準にしての比較を行うことが求められますが、この比較もなかなか難しいようです。

 それには、自分が開発したマイクロバブルが、ほとんど意味のあるマイクロバブルでなかったらどうしようかという、恐れも伴います。

 私自身も、それと同じ恐れを覚え、そうであってもよいから、意味がないものだと解ってもよいから、その究明を試みようと葛藤したことがありました。

 しかし、この比較においては、その適用を行おうとしている具体的な目的に照らして評価を行うことが重要ですが、実際には、そのような具体性がほとんど認めらませんでした。

 学識のレベルにおいて、このようなことがあちこちで起きていましたので、それを利用した社会では、マイクロバブルであれば、どれも同じ機能を持っていると宣伝され続けています。

 挙句の果てには、騙しすれすれのトリックを使って、あり得ない超洗浄力を誇大宣伝するシャワー装置も出現し、少なくない方々がこのトリックに引っかかることになりました。

 私が、社会的の問題だと思うのは、そのトリックに担がれた学者やメディアが存在していることであり、それによって世の中はますます混乱していくことです。

 また、たとえばマイクロバブルであれば、「毛穴の中まで浸入して毛穴の中まで掃除をしてしまう」という、未実証の誇大宣伝が未だに、あちこちでなされています。

 毛穴の中にマイクロバブルが侵入していくには、その毛穴の入り口における表面張力に打ち勝つエネルギーが必要になりますが、そのようなマイクロバブルは、光マイクロバブル以外にほとんどありません。

 さて、「マイクロバブルが濃い、あるいは薄い」という前述した濃度問題に、ここでもう一度戻っておきましょう。

 この濃度問題を唱えたのは、その背景に、「濃いマイクロバブルはよい」、「薄いマイクロバブルは役立たない、むしろ劣悪だ」という見解が潜んでいました。

 なぜ、このように表面的で、形而上学的見解に陥ってしまうのでしょうか?

 そこには、「濃いマイクロバブルであれば、それだけ大量にマイクロバブル内の気体を溶解させることに長けている」のではないかという考えがありました。

 それゆえに、このマイクロバブルの濃淡差を問題にされた方々は、その内部気体をどう溶解させるかに拘った研究を遂行されていました。

 より具体的には、気体が空気であれば、その中の酸素を溶解させる効率を上げようとし、それがオゾンであれば、より高濃度のオゾン水を製造しようという指向がありました。

 しかし、その指向の是非はともかくとして、その結果は、彼らが目標としていた「成功」にまで到達することができませんでした。

 それは、なぜでしょうか?

 それは、マイクロバブルの量が多い(濃い)といっても、そのマイクロバブルの絶対量を考慮すれば、その目的を達成するほどには量的には足りていない、すなわち、実用的は、その絶対量が「少なすぎた」ことにありました。

 最近、マイクロバブルの研究者としてよくテレビに出てくる、ある研究者が、私どもの超高速旋回式光マイクロバブル発生装置を購入され、それを用いて総括酸素移動容量係数(KLa)を測定されていました。

 それによれば、私どもの光マイクロバブルは、吸入空気量が少ない場合において、その溶解効率が高いという結果が示されていました。

 少ない空気吸入量であるが、その酸素吸収、溶解効率には優れている、ここに重要な特徴が認められるのです。

 しかし、光マイクロバブルの技術は、いわば、この酸素溶解効率の問題は、その一部において適用されるのみであり、それよりももっと広く、本質的な適用分野を有していたのです。

 それゆえ、マイクロバブルの量が多いからよいのではなく、また、少ないから悪いのではなく、少なくても、多くても、その優れた機能性が発揮されるのであれば、その適用が可能であるということなのです。

 光マイクロバブルブレイクスルーの「第三過程」とは?

 このマイクロバブルの濃淡問題の出現後には、次の2つの研究指向が生まれていきました。

 その第1は、マイクロバブルによる酸化、オゾンマイクロバブルを含む殺菌作用に期待する流れでした。

 その第2は、光マイクロバブルによる生物活性を究明しようという流れでした。

 この流れは、アルカリ化・還元による生物の蘇生をめざすという、第1の指向とは正反対のものでした。

 そして、この第2の指向のなかに、「光マイクロバブル・ブレイクスルーの第三過程」が存在していました。

 次回においては、これら2つの流れと、その第三過程により深く分け入ることにしましょう(つづく)。

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大葉の苗