楠の大木
藤原茶舗で歓談をした後に、そこから30m先にある四日市北小学校のグランドを散策しました。
夏休み中だったのでしょうか。
校庭には、だれもおらず、静かに大木たちが迎えてくれました。
私が通っていたころは、四日市町立四日市小学校でした。
創立は明治7年ですので、相当に古く、ここが天領としての要衝であったことから、人が集まり、小学校が建てられたのでしょう。
石造りの記念柱がある正門から入ると大きなグランドがあり、左に1~3年生用の木造校舎がありました。
今は、付属の保育園として利用されています。
また、右手には、4~6年生用の校舎がありました。
当然のことながら、今は、建屋における当時の面影はなく、洒落た外形の体育館も見えました。
しかし、眼前の校庭は昔のままであり、しばし、ここに佇んで幼き頃を思い出しました。
入学は1954年ぐらいですので、終戦から10年も経っていないころでした。
食べ物もあまりなく、弁当は麦飯に梅干し、卵焼きが偶にあると大喜びでした。
服は下着のまま、履物はゴム草履のものも多くいました。
しかし、先生方は明るく、熱心な方ばかりでした。
私の家は、この小学校まで歩いて10分程度のところにあったので、友達と一緒に登校しました。
家を出るときは、数人の同級生と一緒だったですが、ほぼ毎日といってよいほど、必ず、忘れ物を取りに帰っていました。
子供なりに忘れ物を毎朝取りに帰るのが恥ずかしいと思ったのでしょう。
行きは表から、忘れ物を取りに帰る時は、裏からそっと見られないようにしていました。
しかし、親の方は毎朝のことですから、私を待ち構えていて、間に合わないからと父親が自転車の後ろに私を載せて小学校に向かう、これが私の登校における日常でした。
こうして低学年校舎に通い始めた私ですが、しばらくは保育園の方がよいといって親を困らせていたそうです。
ところが、女性の担任の先生が好きになって学校に慣れたからでしょうか、しばらくしてその保育園帰りをいわなくなったようです。
この低学年校舎のすぐそばに大きな楠の大木がありました。
おそらく樹齢は長く、相当に前からでしょうから、室町、あるいは江戸の時代に自生していたのかもしれません。
暑い日は、このグランドで野球を行う時に、この木陰を利用していました。
往時を忍ばせる、その大木を示しましょう。
楠の大木
立派な大木です。この姿は昔のままであり、多くの小学生を見守ってきたのだと思います。
後ろは、保育園ですが、ここに低学年用の校舎がありました。
その後、それが取り壊されて、ここも遊び場になっていました。
立派な大木です。この姿は昔のままであり、多くの小学生を見守ってきたのだと思います。
後ろは、保育園ですが、ここに低学年用の校舎がありました。
その後、それが取り壊されて、ここも遊び場になっていました。
N先生の勧め
この楠の大木は他にもあり、さらにプラタナスの大木もありました。
なにせ、150年弱の歴史を有する小学校ですので、その間に植樹して育てられてきたのでしょう。
近頃の学校では、このような大木をなかなか見かけることはありません。
たしか、4年生の時だったでしょうか。
担任のN先生の図工の時間に、全国の小学生が描いた入賞の絵を見せていただいたことがありました。
そのなかに、カラフルな木の絵がありました。
「そうか、木が絵になるのか!」
と思って感心したことがありました。
その後、校庭に出て好きなものを描きなさいといわれ、その対象物を探しまわりました。
まず、楠の大木を見に行きましたが、これが大きすぎて無理だと思いました。
その次に、その大木から約30m離れたところに、直径数十㎝の変わった木を見つけました。
この木の表面が複雑な形状を呈していましたので、これを描いてやろうと思いました。
ところが、その模様を1枚、1枚と丁寧に描いたために、すぐに図工の時間が終了してしまい、完成しないままに提出しました。
それを見て、N先生が反応しました。
その描きかけを、みんなの前で見せて、「これはいい」と小さくない評価を受けることになってしまいました。
まだ、わずかしか描けてないのに、どうして見せるのか?と疑問を覚えましたが、その時は、意外の評価に少々驚きました。
そして、放課後に先生に呼ばれ、「これから、休むことなく、これを完成させなさい」といわれました。
どうやら、後で知ったのですが、どこかの絵画コンクールに出すためだったようでした。
この時のことは、よく覚えていて、まず、鉛筆でデッサンを描き、その上をインクを浸けたペンでなぞった後に、水彩絵の具で色を付けていくというもので、とにかく描くのに時間がかかりました。
毎日の放課後、日曜日も出かけて、じっと座って描き続けたので尻が痛くなったこともありました。
その完成画を観て、N先生は非常に喜び、「よくやった」と、ほめてくださいました。
その絵画は、どこかのコンクールで入賞したようでしたが、今では、それが何だったかは忘れてしまいました。
しかし、それを描き上げた私のなかには、重要な変化が起こっていました。
ーーー 絵とは、このようにして描けばよいのか。
これは、幼心ではありましたが、納得し、ある意味で悟った体験であり、これを「体得」というのでしょう。
時間をかけて丁寧に、苦労して描くことでよい絵画が描けることを知りました。
それ以降、描いた絵のほとんどが各種のコンクールで入賞するようになりました。
しかし、この世には必ずライバルが現れます。
それが油屋の池田の健ちゃんでした。
その油屋(ガソリンスタンド)は、私の家の数軒先にあり、そこの健ちゃんは、遊び仲間であり、喧嘩の相手でもありました。
おっとりしていてやさいい健ちゃんは、野球などのスポーツでまるっきりへたくそで、走るといつもビリでした。
融通が利かない、いつものんびりしていて、時々仲間はずれになっても気にしない、悠々とした性格でしたが、魚釣りと絵画だけは、ずば抜けて上手く、私の上を行っていました。
ある時、全県的な絵画コンクールで入賞したことで、全校生徒の前で校長から表彰状と盾の記念品が授与されたことがありました。
健ちゃんが第二位、私が第三位のダブル受賞でした。
このときは、健ちゃんと共に喜び合い、健ちゃんがもらった盾が私のものより大きかったので羨ましく思いました。
その後、この小さな盾を大切にして持ち歩きましたが、今でも机のなかの隅に収まっていることでしょう。
また、健ちゃんとの喧嘩は、いつも私が勝てると思い込んで挑んだのですが、最後は、私の方が負けてしまいました。
それが健ちゃんの自信になっていたようで、「いつでもかかってこい」と強気でした。
ある時、近くの駅館川の堰に遊びにいったら、そこで健ちゃんが、すいすいと泳いでいました。
あの野球をやらしたら、からっきしダメだった健ちゃんが、目の前で気持ちよく泳いでいたのには吃驚しました。
それは、私が少しも泳げなかったからで、「健ちゃん、すごいぞ!」と尊敬の念すら覚えました。
しかし、それから間もなくして、健ちゃんの訃報が届きました。
その川で泳いでいて溺れたとのことでした。
あっけない、悲しい別れでした。
私の家の近くには、健ちゃんを始めとして仲良く小学校に通った同級生が4人いました。
この5人で野山を駆け回り、毎日暗くなるまで遊んでいました。
健ちゃんは早く亡くなり、一番仲が良かったK君は病院で療養中、S君は大変な酒豪になり、一晩で一升を軽く飲む豪傑に変身していました。
最後のI君は、いつもクラスが一緒で、私を支援してくださいました。
風の便りでは、大きな会社を定年退職され、東京の近くに住まれているそうです。
ところで、小学校5、6年になって一番よく思い出すのは、走るのが遅くなったことでした。
低学年では、常に紅白リレーの選手でしたが、その確保ができなくなっていました。
かわりに好きになったのが本でした。
担任の先生が図書館担当だったので図書委員になり、毎日本の整理や修理を行うために図書館に通いました。
どこに、どのような本があるか、よく貸し出す本は何か、を知ることになり、本に関する興味が徐々に大きくなっていきました。
「シャーロック・ホームズ」や「三国志」の本は、奪い合うように借りて、むさぶるように読んだものでした。
こうして絵画好き、本好きの私の基礎ができ上ったのでしょうか。
今思い返せば、非常に貴重な経験だったように思われます。
(つづく)
四日市北小学校の校章(以前の四日市小学校の校章は、この「北」の部分が「四」ではなかったかと思われます。立派な校章です)
なにせ、150年弱の歴史を有する小学校ですので、その間に植樹して育てられてきたのでしょう。
近頃の学校では、このような大木をなかなか見かけることはありません。
たしか、4年生の時だったでしょうか。
担任のN先生の図工の時間に、全国の小学生が描いた入賞の絵を見せていただいたことがありました。
そのなかに、カラフルな木の絵がありました。
「そうか、木が絵になるのか!」
と思って感心したことがありました。
その後、校庭に出て好きなものを描きなさいといわれ、その対象物を探しまわりました。
まず、楠の大木を見に行きましたが、これが大きすぎて無理だと思いました。
その次に、その大木から約30m離れたところに、直径数十㎝の変わった木を見つけました。
この木の表面が複雑な形状を呈していましたので、これを描いてやろうと思いました。
ところが、その模様を1枚、1枚と丁寧に描いたために、すぐに図工の時間が終了してしまい、完成しないままに提出しました。
それを見て、N先生が反応しました。
その描きかけを、みんなの前で見せて、「これはいい」と小さくない評価を受けることになってしまいました。
まだ、わずかしか描けてないのに、どうして見せるのか?と疑問を覚えましたが、その時は、意外の評価に少々驚きました。
そして、放課後に先生に呼ばれ、「これから、休むことなく、これを完成させなさい」といわれました。
どうやら、後で知ったのですが、どこかの絵画コンクールに出すためだったようでした。
この時のことは、よく覚えていて、まず、鉛筆でデッサンを描き、その上をインクを浸けたペンでなぞった後に、水彩絵の具で色を付けていくというもので、とにかく描くのに時間がかかりました。
毎日の放課後、日曜日も出かけて、じっと座って描き続けたので尻が痛くなったこともありました。
その完成画を観て、N先生は非常に喜び、「よくやった」と、ほめてくださいました。
その絵画は、どこかのコンクールで入賞したようでしたが、今では、それが何だったかは忘れてしまいました。
しかし、それを描き上げた私のなかには、重要な変化が起こっていました。
ーーー 絵とは、このようにして描けばよいのか。
これは、幼心ではありましたが、納得し、ある意味で悟った体験であり、これを「体得」というのでしょう。
時間をかけて丁寧に、苦労して描くことでよい絵画が描けることを知りました。
それ以降、描いた絵のほとんどが各種のコンクールで入賞するようになりました。
油屋の健ちゃん
しかし、この世には必ずライバルが現れます。
それが油屋の池田の健ちゃんでした。
その油屋(ガソリンスタンド)は、私の家の数軒先にあり、そこの健ちゃんは、遊び仲間であり、喧嘩の相手でもありました。
おっとりしていてやさいい健ちゃんは、野球などのスポーツでまるっきりへたくそで、走るといつもビリでした。
融通が利かない、いつものんびりしていて、時々仲間はずれになっても気にしない、悠々とした性格でしたが、魚釣りと絵画だけは、ずば抜けて上手く、私の上を行っていました。
ある時、全県的な絵画コンクールで入賞したことで、全校生徒の前で校長から表彰状と盾の記念品が授与されたことがありました。
健ちゃんが第二位、私が第三位のダブル受賞でした。
このときは、健ちゃんと共に喜び合い、健ちゃんがもらった盾が私のものより大きかったので羨ましく思いました。
その後、この小さな盾を大切にして持ち歩きましたが、今でも机のなかの隅に収まっていることでしょう。
また、健ちゃんとの喧嘩は、いつも私が勝てると思い込んで挑んだのですが、最後は、私の方が負けてしまいました。
それが健ちゃんの自信になっていたようで、「いつでもかかってこい」と強気でした。
ある時、近くの駅館川の堰に遊びにいったら、そこで健ちゃんが、すいすいと泳いでいました。
あの野球をやらしたら、からっきしダメだった健ちゃんが、目の前で気持ちよく泳いでいたのには吃驚しました。
それは、私が少しも泳げなかったからで、「健ちゃん、すごいぞ!」と尊敬の念すら覚えました。
しかし、それから間もなくして、健ちゃんの訃報が届きました。
その川で泳いでいて溺れたとのことでした。
あっけない、悲しい別れでした。
私の家の近くには、健ちゃんを始めとして仲良く小学校に通った同級生が4人いました。
この5人で野山を駆け回り、毎日暗くなるまで遊んでいました。
健ちゃんは早く亡くなり、一番仲が良かったK君は病院で療養中、S君は大変な酒豪になり、一晩で一升を軽く飲む豪傑に変身していました。
最後のI君は、いつもクラスが一緒で、私を支援してくださいました。
風の便りでは、大きな会社を定年退職され、東京の近くに住まれているそうです。
ところで、小学校5、6年になって一番よく思い出すのは、走るのが遅くなったことでした。
低学年では、常に紅白リレーの選手でしたが、その確保ができなくなっていました。
かわりに好きになったのが本でした。
担任の先生が図書館担当だったので図書委員になり、毎日本の整理や修理を行うために図書館に通いました。
どこに、どのような本があるか、よく貸し出す本は何か、を知ることになり、本に関する興味が徐々に大きくなっていきました。
「シャーロック・ホームズ」や「三国志」の本は、奪い合うように借りて、むさぶるように読んだものでした。
こうして絵画好き、本好きの私の基礎ができ上ったのでしょうか。
今思い返せば、非常に貴重な経験だったように思われます。
(つづく)
四日市北小学校の校章(以前の四日市小学校の校章は、この「北」の部分が「四」ではなかったかと思われます。立派な校章です)
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