極楽通り
先日、宇佐市四日市にあるお墓の掃除に行った際に、昼食までに少し時間がありましたので、昔の四日市町だった時代の中心街あたりを散策することができました。
古くは、この四日市が天領であったことから、交通の要衝として人が集まって栄えたようです。
また、ここには、西本願寺と東本願寺がほぼ隣接してあり、これも珍しい地勢といえます。
この門前で市が開かれ、四日市という地名が生まれたのではないかと思います。
この西本願寺には、昔付属の幼稚園があり、私は、ここに通っていました。
今となっては、その卒園前に行われた学芸会で浦島太郎役を演じたことがかすかな記憶として残っています。
先日、50年ぶりの四日市中学校の同窓会があり、そこで亀の役立ったG君と懐かしい会話を交わすことができました。
「お姫様役は誰だったか覚えているか?」
と、G君に尋ねられ、その返答に困りました。
まったく記憶のなかにはなく、彼女がMOさんであったことをG君から教えていただきました。
この西本願寺に通じる道は、今は「極楽通り」と呼ばれているそうで、この道を姉におんぶしていただいて、浦島太郎の衣装のまま家に帰ったことを覚えています。
その極楽通りと西本願寺の社を示しておきましょう。
極楽通りと西本願寺四日市別院
この西別院の隣に、東本願寺四日市別院があります。
ここには、大きな山門があり、このスケッチによく出かけていました。
あるとき、私が通っていた小学校の校長が、海外旅行に出かける際に、お土産に和紙の団扇を持っていきたいとのことで、真っ白な団扇を渡されました。
私は、この山門を選んで墨で描いたのですが、出来栄えが気に入らなかったので、しぶしぶ渡しました。
ところが、校長は、それをもらって非常に喜ばれていましたので、安堵したことを覚えています。
その時、数人に、その絵画を依頼されていたようで、この山門を描いたのは私だけでした。
因みに、この山門がある四日市別院の住職は同級生のF君であり、小さいころから利発で、私は、かれに成績において、一度も勝ったことがありませんでした。
この極楽通りの入り口付近に「親玉本舗」があります。
その店舗を示しましょう。
親玉本舗
右側は、どうやら学習塾のようです。
藤原茶舗
「確か、この隣にお茶屋さんがあった」
小学生のころの記憶の通り、それは「藤原茶舗」でした。
「私の子どものころから、この店舗がありましたが、もう何年続いていますか?」
こう尋ねると、「もう110年になります」という回答がありました。
「創業は明治43年ですか、よく頑張ってこられましたね」
こういうと、年配の店員の方が喜んでおられました。
「ところで、この左隣に阿部呉服店がありませんでしたか?」
「ありましたよ。店の奥に、写真ライブラリーがありますので、そこにも阿部呉服店が載っていますよ」
こういわれて、その懐かしい写真を拝見しました。
これらは、私が小学校や中学校の登下校においてよく通った道の様子ですので、記憶のどこかにあるはずだと思って、食い入るように、それらの写真を眺めました。
そして、その最後の方に阿部呉服店の写真が1枚だけありました。
この呉服店の娘さんが私の小学校・中学校の同級生でした。
懐かしさのあまり、藤原茶舗の店員さんに思わず尋ねました。
「阿部呉服店の娘さんは、今どうされていますか?」
「娘さんは二人おられましたよ。R子さんだったら姉の方で、お嫁にいかれました。とても美人の姉妹でした。その後は、どうなったのかは知りません」
「そうですか、ありがとうございます。小学校のグランドでは、よく遊んでいました」
その昔の淡い思い出が鮮やかに蘇ってきましたので気分が爽やかになり、抹茶とほうじ茶を購入しました。
昔は、まだ「呉服店が繁盛する時代」であり、そこの娘さんは何かと注目されていました。
この呉服店の近くに「溝口呉服店」という店もあり、ここの娘さんも同級生で、みなが、あこがれていました。
因みに、呉服店とは、中国の呉(三国志の時代)の人々が、着流しの服を愛用していたことに由来しています。
この藤原茶舗の抹茶とほうじ茶は、共においしく、お茶にうるさい私であっても、その味は合格でした。
どこか、故郷の香りを感じる「お茶」でした。
(つづく)
小学生のころの記憶の通り、それは「藤原茶舗」でした。
「私の子どものころから、この店舗がありましたが、もう何年続いていますか?」
こう尋ねると、「もう110年になります」という回答がありました。
「創業は明治43年ですか、よく頑張ってこられましたね」
こういうと、年配の店員の方が喜んでおられました。
「ところで、この左隣に阿部呉服店がありませんでしたか?」
「ありましたよ。店の奥に、写真ライブラリーがありますので、そこにも阿部呉服店が載っていますよ」
こういわれて、その懐かしい写真を拝見しました。
これらは、私が小学校や中学校の登下校においてよく通った道の様子ですので、記憶のどこかにあるはずだと思って、食い入るように、それらの写真を眺めました。
そして、その最後の方に阿部呉服店の写真が1枚だけありました。
この呉服店の娘さんが私の小学校・中学校の同級生でした。
懐かしさのあまり、藤原茶舗の店員さんに思わず尋ねました。
「阿部呉服店の娘さんは、今どうされていますか?」
「娘さんは二人おられましたよ。R子さんだったら姉の方で、お嫁にいかれました。とても美人の姉妹でした。その後は、どうなったのかは知りません」
「そうですか、ありがとうございます。小学校のグランドでは、よく遊んでいました」
その昔の淡い思い出が鮮やかに蘇ってきましたので気分が爽やかになり、抹茶とほうじ茶を購入しました。
昔は、まだ「呉服店が繁盛する時代」であり、そこの娘さんは何かと注目されていました。
この呉服店の近くに「溝口呉服店」という店もあり、ここの娘さんも同級生で、みなが、あこがれていました。
因みに、呉服店とは、中国の呉(三国志の時代)の人々が、着流しの服を愛用していたことに由来しています。
この藤原茶舗の抹茶とほうじ茶は、共においしく、お茶にうるさい私であっても、その味は合格でした。
どこか、故郷の香りを感じる「お茶」でした。
(つづく)
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