コロナの感染様式

 毎週日曜日夜の「半沢直樹」の放映の前に、先の記事において書き残したものを紹介します。

 今日は、新型コロナウイルス感染問題が世間を騒がし始めた時にいわれ始め、そして未だに、その誤謬が存在し続けている、しつこい科学的認識問題について考えてみましょう。

 新型コロナウイルスの感染経路において、「接触感染」、「飛沫感染」、「空気感染」などの専門用語が頻繁に出現するようになりました。

 最前者の「接触感染」は、ダイアモンドプリンセス号の封鎖隔離で問題になりました。

 感染した多数の従業員が、検査もなされないまま食事や物を運んでいました。

 感染者が閉じ込められた部屋の床や壁には、新型コロナウイルスが多数付着して生き続けていました。

 また、回収したアンケート用紙を素手で触り集計を行っていた、厚生労働省の事務職員が感染しました。

 後になって、郵便局員が切手を舐めて貼っていたことで感染が広がったこともありました。

 新型コロナウイルスがしつこく、床や壁、そしてドアノブなどに付着して生きていたことで、それに接触して感染が広がるという現象でした。

 これらの事例を耳にして、私がふしぎに思ったことは、そのほとんどが外国において究明されたことでした。

 それらの成果をマスコミが報じることで、私たちは知ることになりますが、なぜ、日本の専門家によって、このようなレベルの究明や開示がなされなかったのか、それだけ、レベルが低いのかという疑義を抱いていました。

 後に、この疑義は心配に変わり、100年前のスペイン風邪と同じ水準の対応しかできていない、という信じがたい状況が明らかになってきました。

 メディアに登場する専門家は、評論家のような発言を繰り返し、せいぜい、その時の状況の表層的解釈を述べることに終始していました。

 これでは新型コロナウイルスに関する真実は伝わらず、国民は、おまけに正しい科学的学習をすることで賢くなっていくこともできません。

 周知のように、新型コロナウイルスのサイズは、約100nm(ナノメートル)です。

 これをミリメートルで換算し直しますと、1/1000㎜が1㎛ですので、100nmは1万分の1ミリメートルとなります。

 1㎜を1万個に分割して、そのひとつ分が100nmなのです。

 小さいですね。

 当然のことながら、あまりにも小さすぎて目には見えません。

 周知のように、新型コロナウイルスの住処は、鼻や口腔、肺、そして内臓などです。

 これらに共通して存在しているのは「水と汚れ」です。

 すなわち、新型コロナウイルスは各種の「汚れた水」のなかに棲んでいるといってもよいでしょう。
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新型コロナウイルスとマイクロ飛沫(ドロップ)の比較


飛沫感染と空気感染

 次に、強調されたのが「飛沫感染」でした。

 咳や嚏(くしゃみ)をした際に、飛沫が飛び散り、それを防ぐためにマスクの着用が勧められました。

 ここでいわれた「飛沫」は、小さな水滴のことで、その飛距離は、せいぜい2m前後だといわれていました。

 同時に、ここで強調されたのが、「空気感染はない」ことでした。

 この時の「空気感染」とは、結核菌やハシカ菌などのように、空気中を浮遊して感染を広げる菌やウイルスのよる感染と説明されていました。

 この説明によって、「飛沫感染」を防げばよいという方法が示されました。

 飛沫(ひまつ)とは小さな飛沫(しぶき)のことですが、それが2m前後までしか広がらないという「固定観念」を抱かせてしまうようになりました。

 ところが、これに当てはならない「おかしなこと」が起こり始めます。

 それは、新型コロナウイルス感染者がカラオケバーに行って感染を振りまいた事件がありました。

 この時は、直接対応された女性が感染せず、まったく非接触の方の感染が報じれられました。

 その感染因探しが行われましたが、この時は、そのバラマキ感染者が座ったソファーに、その感染女性が座ったから、すなわちソファーにおける接触感染があったことから感染が起きたと説明されていました。

 つまり、ここでも、「空気感染はなし」とされ、「接触感染」を推察したことで済まされたのでした。

飛沫のイデオロギー問題

 私は、これらの一連の出来事を観ながら、ここには、非科学的で硬直的な「イデオロギー問題」が、その背後にあるのではないかと思いました。

 それを具体的に箇条書きで示してみましょう。

 ①「飛沫感染」の理解において、それまでの常識内の範囲でしか考えることができなかった。
 
 ②しかも、それは正しい飛沫科学の知識を身つけたものではなく、あいまいさがあった。

 具体的には、飛沫のサイズによって、その飛距離を正しく算定することができなかった。

 ③それまでの「飛沫感染」と「空気感染」の中間にある、後に明らかにされる「エアロゾル感染」、「マイクロドロップ感染」の可能性を想像することができなかった。

 ④それは、「空気感染」のメカニズムをよく理解できていなかったことにも由来していた。


 すなわち、ここには、飛沫科学、空気感染科学、エアロゾル飛沫科学の欠如とあいまいさ、弱さが存在していたのでした。

 おそらく、感染症の専門家といえども、マイクロメートルサイズの飛沫の動的挙動や新型コロナウイルスと飛沫水滴の関係などについては、不明な点が多かったのではないかと思われ、そのために新たな科学的究明が行われていなかったのではないのでしょうか。

 ましてや、新型コロナウイルスの大きさは、100nm(ナノメートル)という極めて小さなものですから、この動態を理解するには、ナノサイズの科学が必要になります。

 つまり、新型コロナウイルスが鼻腔や口腔、そして肺や他の臓器に、どのように棲みついて、どのように感染を広げ、病気を悪化させていくのかについてのナノ科学、あるいはナノ医学の視点からのアプローチが不足していたのではないかと思われます。

 この不足によって、現場では、正しい科学的な対策ができずに、医師や看護師が次々に感染し、東京の最先端といわれていた病院において、その循環器内科では入院者の半数が死亡してしまうという悲劇が発生しました。

 これは、非科学的なイデオロギーが硬直化したために、現場が有効な対策を講じられずに、混乱を誘起させた典型的事例ということができます。

 しかし、このような社会的混乱は、一度起きてしまうと、それを治めることはなかなか容易なことではありません。

 その根本的な理由は、社会的な通年として、その「イデオロギー」が居座ると、それを取り除くには、それを覆す理論と実践が必要になるからであり、それには、長い時間と尽力が求められるからでもあります。

 科学的な正当性と誤謬の判別問題であれば、その是非はすぐに明らかになりますが、それがイデオロギーとして受容されると、そう簡単には解消されない、それが日本人、あるいは日本社会の特質なのです。

 科学の未熟さが、誤謬を含むイデオロギー問題を生み出す、その典型が、今回も発生しているのではないかと思います。

 次回は、この特質についてより深く分け入ることにしましょう。 

 (つづく)

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