S先生の遺本、小倉寛太郎さんの『自然に生きて』を読み終えました。

 よい本とは、読後に「また読んでみたいという気持ちが起こることで決まる」、これは京都大学教授であり哲学者であった戸坂潤さんのことばですが、これには、次の3つの場合があるのではないかと思っています。

 ①同じ本をもう一度読み返してみたいという気持ちにさせる。

 ②同じ作者の違う本を読みたくなる。

 ③他の作者の本でもよいから「読んでみたい」と思うようになる。

 この読後、①と③があるようで、それらを踏まえて、このブログ記事の続編を書くことにしました。

 そこで、ます、この本名が気になり始めました。

 なぜ、作者は、この本に「自然に生きて」という題目を付けたのか?

 これには、次の2つの意味があったのではないかと思います。

 その第1は、自らの心の赴くままに、すなわち自分に素直な気持ちになって、その心が命ずるままに生きてきたことだと思います。

 作者は、中学校3年生の時に終戦を迎えました。その8月15日を迎えるまでは、ガチガチの軍国少年として育てられ、工場では木製飛行機の部品作りと工程での芋や野菜づくりを命じられて懸命に「お国」のために尽くしていました。

 従兄の二人は、特攻隊員と回天隊員として命を失いました。

 すべてが戦争のためであったのが、その終戦を境に大きく変わり、かれらを教育していた大人や軍人たちが豹変していきました。

 それらを見て、小倉少年は「二度と戦争はいやだ。平和が一番大切なものである」ことを心から思い直し、それを自分の信条にして生きることを誓います。

 平和に徹して生きる、これがかれにとって「自然に生きる」ことになったのでした。

 戦後、かれは苦労してようやく日本航空に就職しました。

 真面目に働き、周囲の人々から信頼されるようになりました。
 
 ある時、同じ職場の若い女性が今でいうパワハラを受けて困っていました。

 当時の日航における職場はかなりひどく、上司のやりたい放題がまかり通っていたそうです。

 かれは、そのパワハラの現場で困っていた女性を救うために、その上司に毅然と抗議し、それを止めさせました。

 これが日航の社内で評判になり、組合役員に推薦されます。

 ここで周囲の職員のみなさんに信頼され、推薦を受けたことを、かれは自然に受け留め、組合の執行委員になりました。

 この時点においても「自然に生きた」のだと思います。

 そして30歳で日本航空の組合の執行委員長にもなり、ここで日航の経営者と対峙し、次々に職場の要求を実現させていきます。

 その度に、かれは職場からの信頼を得ていきましたので、日航の当局者たちは、かれを嫌い、海外に飛ばす方法しかなくなってしまいます。

 最初は、パキスタンのカラチへ、3年で帰るという暗黙の社内規定があり、かれは、それで帰国できると思い、家族も納得していました。

 しかし、会社の方は、かれの包囲網をさらに強化し、次はイランの首都テヘランへ、そして最後はケニアのナイロビへと足掛け8年に及ぶ海外生活を命じました。

 この海外修行のなかで、かれが悟ったことは、会社幹部を恨み続けるのではなく、自分の運命を積極的に受容し、それをむしろ前向きに捉えて生き抜くことでした。

 与えられた不利な条件を逆に十二分に活かす、この極意を悟ったのでした。

 その時々においては、小さくない葛藤があったと思われますが、こう思うことで、それを自分で乗り越え、自然に克服していくことができたのだと思います。

 第2は、実際にアフリカの雄大な自然のなかで生き抜いたことです。 

 最後の赴任地ケニアの首都ナイロビを含む東アフリカは、もともとホモ・サピエンスの発祥地です。

 ここは非常に棲みやすく、年中夏の軽井沢のような気候だそうです。

 よく乾燥し、夜は気温が下がってここちよく、過ごしやすい、高温多湿で狭苦しい日本とは大違いのようです。

 しかも、大草原にたくさんの獣たちが自生しているのですから、ここで過ごすことは真に「自然に生きる」ことでした。

 「なぜ、こんな世界の果てに追いやられたのか」

と悲嘆に暮れていたのは赴任当初であり、アフリカの軽井沢に棲みつくことによって、自らの心身が自然に癒され、解放されていきました。

 「なんと、狭い日本で些末なことに拘ってきたか!」

と思うだけでなく、

 「私にとって、こんな素晴らしいところがあったのか!」

と感謝するようになったそうです

 アフリカの大自然の中で、自らが真に復活していったのです。

 ここまで来ると、作者が『自然に生きて』と題した意味がよく解りますね。

 次回は、かれが目覚めた根源的な自然観に分け入ることにしましょう(つづく)。
 
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公園の若葉(梅園の里にて)