S先生が遺された本のなかに、小倉寛太郎さんの『自然に生きて』がありました。

 小倉さんは、山崎豊子の『沈まぬ太陽』の主人公恩地元のモデルになった方です。

 この小説は、若いころに読み、その後も映画化、WOWOでもドラマ化がなされ(今でも、その録画を大切に保管しています)、何度も視聴してきました。

 ご周知のように、山崎豊子さんは、『白い巨塔』を転機として社会派作家となり、この『沈まぬ太陽』には数々のエピソードが生まれていました。

 もう一方の主人公の小倉さんは、日本航空の組合の委員長であり、スト権をも行使して日航社員のために少なくない要求を実現された頼れる指導者でした。

 最初は乗り気でなく、欠席裁判のような形態、すなわち本人の了解なしで執行委員長の立候補になってしまい、1名の反対以外の全員の賛成で当選します。

 この1名の反対が、小倉さんの投票でした。

 しかし、当選したからには、全力でまじめに組合の活動に取り組み、非組合員や上司からも信頼されるようになりました。

 ところが、それを気に入らない幹部がいて、そのなかの一人が恩地と一緒に組合活動を行い、本来なら、自分が委員長候補になるところを恩地に拝みこんで、自分は下りて、結局は組合も辞めて幹部になったという人物でした。

 その彼が、恩地担当で、恩地を海外に出向させます。

 結局、この出向は、3か国に及び、最後はケニアのナイロビで過ごすことになりました。

 この時の心境を、彼は講演のなかでおもしろく語っています。

 30歳で組合の委員長になり、それから40数年が経過したのちの素直な心境の吐露でした。

 「私が海外に追放されて、それを約束破りだと怒って辞めるというこになれば、むしろそれはかれらが狙っていたことそのものが実現されることになる。それでは、私の存在はなくなってしまう。ここは、自分の運命を考え直すよい機会ではないか」

 これが、かれの真摯で強い意志の具現でした。

 そのうち、いい加減な経営と利権で動いていた社内がどうしようもなくなり、時の総理が立て直しのために新しい社長を送り込みます。

 腐敗しきって崩壊の一歩手前だった日本航空を立て直すために、その重要人物として恩地が呼び返されます。
  
 社長付ですから、幹部たちも恩地を足ざまにすることはできず、ここで新たな対立が
生まれ激化していきます。

 結局、この物語は、大きな不正が内部告発によって明らかにされ、その同僚が逮捕されるところで終わりますが、その前に、恩地が再びケニアに出向することが決められていて、かれは、その運命をさらに前向きに捉えて再度アフリカに赴きます。

 かつての組合の同僚であった二人の運命は、みごとに異なっていったことを作者の山崎豊子さんは立派に、そして鮮やかに描き切ったのでした。

 その不屈ともいってもよい人生を小倉さんは、淡々と振り返られていますが、その不屈さは、親父さんの教えと戦争体験にあったことを明らかにされています。

 お父さんは、立派な商社マンであり、世の中のことやビジネスの大切さを知っていて、それを幼いころから息子に教え続けられたそうです。

 あるときは、息子にまたがり、尻を出させて打ち続けたそうで、顔や手足だと後遺症があると大変と思い、しかも、尻を出させるまでに時間がかかるので冷静になることができると配慮していたそうです。

 今時、こんな親父はいませんね。

 それから、第二次世界大戦の終戦の時が中学校の3年生、中学生になってからは授業がなく、ほどんどが軍事訓練と軍事作業に費やされていたそうです。

 3年生になると食べるものがなくなり、校庭で芋や野菜を栽培させられたそうです。

 しかし、それらの野菜は、一度も生徒に行きわたらず、ある時、それらを教員と軍人たちが酒を飲みながら過ごしていた光景を目にします。

 「食べ物の恨みは恐ろしい」

と講演において暴露されていましたが、その恨みは、大きくなっても消えることはありませんでした。

 さて、この講演において私がおもしろいと思った2つ目は、山崎豊子さんのことです。

 その第1は、ものすごい綿密で、大量の取材を行っていたことです。彼女の取材に関しての意欲は尋常ではなく、度々小倉さんと衝突したそうです。

 その衝突は、最初のなぜ取材を行うのかで始まり、その動機が気に入らないといって何度も取材を断ったそうです。

 ところが、山崎さんが、そんな断りで納得されるわけがありません。押し問答の末に、ようやく互いが折れて取材が続行する、ということが何度もあったそうです。

 2つ目は、日本航空という当時の国営空港の内部の腐敗をさらけ出し、しかも組合の委員長を主人公にするものですから、日本航空はおろか企業や出版社が発行を許可しないという可能性が大いにありました。

 ところが大作家の山崎豊子さんは、そんなことに少しもたじろぐ方ではなく、平然と次のようにいっていたそうです。 

 「そうなったら、自費出版します。それなら何も問題ないでしょう」

 これには、小倉さんも「さすが」と思われたようで、この最強コンビが、あの大ベストセラーを生み出すことに結びついていったのでした。

 この小説は、1995年に週刊誌「新潮」の連載記事としてスタートします。

 それを企画し、発表させたのが新潮の吉田という担当者だったようで、周囲や上司の反対を押し切っての、いわば独断専行のスタートだったのでした。 

 この吉田さんの予想に反して、週刊誌の売れ行きがうなぎ上りのように伸びて、当時の購読者数の約2倍を超えることになりました。

 こうなると誰も文句が言えないようになり、週刊新潮は売れに売れていったのでした。

 結局、この連載は1999年までの5年間続き、週刊新潮の購買に多大な貢献をなすことができました。

 その後、単行本としても出版され(私は、この全5巻を読んだ記憶があります)、それが150万部に達した時に、吉田さんは病床で満足され息を引き取られたそうです。

 また、文庫本でも出版され、今ではその合計は700万部を超えたようです。

 ここには、小倉さんの組合活動や山崎さんの社会派小説が、ああだこうだという前に、互いに信念を貫いて生きたという不屈さがあり、その不屈コンビが互いに共鳴して、この大事業を生み出したことの意味を、もう一度よく考えてみる必要があるのではないかと思います。

 その後、小倉さんはケニアを第二の故郷として住むようになり、ケニアの大統領からも尊敬されるまでの人物になりました。

 また、山崎さんは、『華麗なる一族』、『不毛地帯』、そして、あの『大地の子』を世に出し、多くの中国人から尊敬されました。

 きっと「大事業」が「次の大事業」を用意していったのだと思いました。

 そして、その偉業に圧倒的に感化されました。

 そのことを改めて深く知ることになり、S先生に深く感謝申し上げます
(つづく)。
 
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バラ(梅園の里にて)