先週あたりから、自社の工場での組み立て作業が増えてきましたので、それを手伝うようにしました。
これは、主として光マイクロバブル商品におけるポンプ関係の装置の組み立てです。
例によって、この工程においては、ちょっとした細かい手作業が必要になります。
日ごろは、机に向かってキーボードを打つことが多い私にとって、これは、手足の筋肉を細かく、そして時には力も必要となりますので、心身のリハビリにはもってこいの作業といえます。
まず、何人かの共同作業なので、役割分担を決めて、互いに協力し合うという形態になりますので連帯感が自然に醸しだされます。
また、自分のなかでは労働の意識が生まれてきて、心身を動かすことの意味や、これを達成していくことの重要性もより明らかに認識されるようになります。
さて、そのリハビリ面においては、次のようなことが起こりました。
初めの作業工程は、小さなネジを外して、そこにアース用のプラグを差し込み、再度、締め付けて固定することでした。
このネジには、小さなワッシャーが2枚配備されていて、その後ろにプラグを填め込んでネジを締める必要がありました。
じつは、この作業が思うように上手くいきませんでした。
目がしょぼしょぼして見えにくかったせいもあり、このワッシャー2枚の後にプラグを差し込んで、元の穴にネジを押し込む作業がスムースに実行できずに、これを数回繰り返してしまいました。
こんな簡単なことが、なぜできないのか?
と、手指の動きのぎこちなさを感じて、「これは、いけない」と思いました。
しかし、「なにくそ」と思いながら、これを繰り返しているうちに、問題のネジ部がよく観えるようになり、指の動きも慣れてきて、この状態を脱することができました。
その後は、同じ工程においても、この作業が円滑に進むようになりましたので、このように手指をしっかり動かして労働を行なうことの大切さを改めて認識できました。
「高齢者になると、身体的能力が低下する」
とは、このことか?と思いました。
「やはり、このようなリハビリ作業が、私にとって非常に重要なのだ!」
と感じました。
もう一つは、この作業中に、さまざまな問題や課題が頭の中に湧いてきて、それらをどう考え、そう行動していけばよいかをじっくり考えることができたことも見逃せないことでした。
たとえば、懸案となっている研究における最近の実験結果をどう考えるかにおいても重要なひらめきがありました。
「そうか、今度は、こうしたらよいのではないか」
という考えが浮かんできて、それを決断することができました。
どうやら手足を動かしていると、脳内での血流促進が活発になされるようで集中的に考察ができるようになるのではないでしょうか。
こうなると、
「1日30分でもよいから、このような手足を動かす作業をした方がよい。むしろ、それを行なうことを欲するようになってきているのではないか」
というプラス思考になり、本日の会議において、その提案を行ないました。
なにごとも面倒くさく思うことが多い私にしては、珍しいことでしたが、しばらくは、私のリハビリのための作業に参加して心身の健全性を確保していきたいと思っています。
若い頃に、大変尊敬していた先生が、膨大な単純作業を平気でやり遂げ、むしろそれを苦労とは思わず、楽しんでやられていたことを知りました。
そうか、膨大な単純作業であってもほど、それは、心の持ちようで楽しくなるだと思って、気持ちを切り替えました。
そしたら、どうでしょうか。
本当に、それが楽しくなり、その経験を重ねると「単純作業さん、待ってました。ありがとう」という気持ちになっていきました。
ところが、この態度は、周囲の若手のみなさんには受け入れられず、ますますおかしな男だと思われてしまいました。
こうなると、その若手は、その膨大な単純作業には参加しなくなり、結局は、私がその大半を楽しく熟すことになってしまいました。
それでも私は平気でした。
なぜなら、その作業を行うことを通じて、自分のなかに湧いてきたアイデアや計画を入念に検討することができましたので、それで十分だったのです。
ですから、この程度の作業で、不平をいう、不満を持つ、落胆することはありません。
むしろ、若いころからの習性を活かして、今を生きる、こちらの方がより重要でここちよいのです。
今となっては、私も高齢者になってしまいましたが、この習性をさらに開花させることをより洗練させていくことが大切だと思っています。
やはり、若い頃に鍛えて洗練させたことは、歳を重ねても不滅でありがたいものですね(つづく)。
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