先日の清水寺における霊水を汲んだ帰りに、近くのレストラン兼ホテルの「梅園の里」に行って昼食を摂ることになりました。
日曜日と木曜日はバイキング形式だそうで旬の野菜を中心にしたメニューと聞いていましたので一度行ってみたいと楽しみにしていました。
丁度昼時だったこともあり、レストランはお客さんが一杯で、その繁盛ぶりが現れていました。
丁度昼時だったこともあり、レストランはお客さんが一杯で、その繁盛ぶりが現れていました。
この人気の高さは、その質の高い料理に接してよく解りました。
野菜を中心にしてずらりと並べられていた料理の一つ一つが丁寧であり、そのいずれにおいてもシェフの腕が発揮されていておいしく仕上げられていました。
野菜を中心にしてずらりと並べられていた料理の一つ一つが丁寧であり、そのいずれにおいてもシェフの腕が発揮されていておいしく仕上げられていました。
とくに、私が気に入った料理は、ゴマ豆腐、里芋の柔らか煮、ホーレンソーの白和えなどでした。
「久しぶりに、本格的な野菜料理をいただくことができた!」
と、少々心を動かされました。
「今度は、家族みんなで、これを食べに来るとよいね」
「今度は、家族みんなで、これを食べに来るとよいね」
「いいですね、次の日曜日はどうですか?」
もちろん、私の返事は「OK」でした。
こうして二人とも気分をよくして帰路に向かいましたが、その近くに三浦梅園の展示館がありましたので、そこを訪ねました。
もちろん、私の返事は「OK」でした。
こうして二人とも気分をよくして帰路に向かいましたが、その近くに三浦梅園の展示館がありましたので、そこを訪ねました。
最初に、梅園の生涯を解説した映画を視聴しました。
ここでは、梅園が医者の長男として生まれ、小さい頃から利発でしっかりと物事をよく考え抜く子であったことが紹介されていました。
ここでは、梅園が医者の長男として生まれ、小さい頃から利発でしっかりと物事をよく考え抜く子であったことが紹介されていました。
かれが生まれ育ったのは、国東市安岐町富清という小さな農村でした。
ここには、美しい野山があり、そのなかで、かれは、その豊かな自然の摂理に興味を示すようになりました。
朝な夕なに国東の自然に親しみながら、いつしか、その仕組みの興味を抱き、「なぜだろう?」と考える習慣を身に付けていきました。
また夜になると、星を仰ぐようになり、宇宙に想いを馳せるようにもなりました。
こうして知識欲旺盛な子供として成長を遂げるようになり、その知識を求めて旅をするようになりました。
その最初は、歩いて杵築まで塾に通うことでした。
その最初は、歩いて杵築まで塾に通うことでした。
片道8時間かかって学び舎に通うことで体力と精神力が鍛えられました。
やがて、梅園の成長とともに、かれの人生を変えた3つの旅を行なうようになりました。
やがて、梅園の成長とともに、かれの人生を変えた3つの旅を行なうようになりました。
それらが、長崎への2度の旅と大阪への旅でした。
当時としては、このような旅を通じてしか、新たな優れた情報を得ることができませんでした。
それらの成果を踏まえて、かれは梅園塾を開き、たくさんの弟子を育て、同じ大分県の教育家広瀬淡窓の塾と相並ぶ存在になっていきました。
この小映画を見終えた後に、展示ホールに入りました。
ここで、梅園の直筆の手紙や文献を直に見ることができ、小さくない驚きを覚えました。
その第1は、達筆ぶりでした。
真にみごとな筆づかいで、これに圧倒されました。
精緻な楷書で書き写された、いわゆるテキスト、ここにはまったくの書き損じもありませんでした。
それから達筆の手紙、小さな紙にぎっしりと記述された筆書きも立派で感心させられました。
第2は、その業績のすばらしさでした。
よくいわれている自然哲学、天文学だけでなく、もともとの専門である医学、政治経済学などオールラウンドにわたる業績を重ねられていることでした。
第3は、梅園塾を主宰して200名余の弟子たちを育てたことでした。
この弟子たちを同行しての約1か月間にわたる長崎への旅は、みんなで集団学習をしたのでした。
これらの具体的な資料に接する度に、それらの感動が増幅してきて、こう思うようになりました。
「やはり、梅園は、初歩からきちんと勉強していかねばならない。その勉強を行ってから、再度、この展示館を訪れ、かれの思想を本格的に学ぶことにしよう!」
すぐ近くに、このような偉人がいたことが貴重であり、幸いではないかと思いました(つづく)。
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