今朝は小雨、少し肌寒く、こんな日は眠気が優位になるようです。
本物語も20回を超え、本格的な展開を遂げるにふさわしい回数になってきました。
そこで、今回から何回かにわたって「『非常識』のすすめ」と題しての「小シリーズ」を届けることにしましょう。
「学問のすすめ」は福沢諭吉、「『非まじめ』のすすめ」は森政弘、これらを参考にしながら、ふとひらめいたのが、この題名でした。
「非常識のすすめ」の元祖は、あの有名なトーマス・エジソンです。
かれは、この言葉に拘り、特別の意識を持っていたようで、それは、今は非常識であるが、やがてそれが「常識」になっていくという意味で、その「非常識」という言葉を大切に使っていましたた。
かれは、非常識のなかに発明の可能性を見出そうとしたのでした。
有名なエジソン三原則とは、「勤勉」、「粘り」、「常識」ですが、この常識とは、非常識なことが常識になっていくことの妙を示唆していた用語です。
そこで、「非常識」が「常識」に変わる、このエジソンのいう「妙」をより深く考究してみることにしました。
その最初のメイン舞台は緑砦館、ここから、その「非常識物語」を繰り広げることにしましょう。
きっかけは、先日、農未来の村田さんのところに見学に出かけた時でした。
かれは、東日本大震災の後に国東の来浦に移住し、初めての米作りに挑戦し、年々、その成果を生み出されていました。
かれの農法が真にユニークなのは、無肥料無農薬の米作り技術を確立され、そのお米を実際に販売していることでした。
この現場を見せられ、そして、その農法の核心を教えていただき、吃驚仰天しました。
しかし、そこには、聞けば聞くほど、見れば見るほどに道理があり、ますます感嘆しました。
これこそ、米作りの実践において鍛えられた理論があり、そこに科学的な矛盾がほとんどないことに、すばらしさがありました。
かれ曰く、実践を重ねていくと理(ことわり)が観えてくる、のだそうです。
「真に非常識ではあるが、そこに矛盾がなく、むしろ理に適っている」
ここがおもしろいことであり、それは私どもが幾度も経験してきた光マイクロバブルの「非常識」とよく似ていることでもあるように思われます。
文字通り、非常識とは、これまでの「常識にはずれていること」ではありますが、しかし、そうだからといって「科学的に、はずれたことではない」こともありうるのです。
もちろん、その非常識が非科学性に富む場合も少なくなくあり得ます。
かれの米作りの理論において、非常に印象に残ったのは、
「稲の本来の力を引きだすために、無肥料、無農薬で栽培する」
といい、それを実践することで、一つの稲穂に200粒の米ができ、一株で120~130本の茎が成長することでした。
この現実を前にすると、むしろ肥料や農薬をまくことは、むしろ「やってはならない」ことになります。
これを聞いた農家や米作りの指導者は、おそらく目を丸くすることでしょう。
しかし、私は、その部類に属していない人間ですから、そして光マイクロバブルの「非常識」を身に付けている者ですので、むしろ、それはあってもよいことであり、さらには歓迎すべきことだとさえ思うことができました。
すでに、私は、T高専における卒業研究において、学生と一緒にウコンを無肥料無農薬で立派に育てて収穫したことがありましたので、それを「非常識」として笑い飛ばすのではなく、「それはありうる」と受容することができました。
そこで、この村田式農法に刺激され、そして過去の一度限りの研究成果を蘇らせ、再び、無肥料・無農薬の野菜づくりに挑戦することにしました。
幸いにも、それを決断した時には、偶々小型の水槽を清掃し、そこに水を入れ、さらにレタスの発芽を済ませた苗を移植した状態のものがありました。
ここに液肥を入れようかと思って数日間躊躇をしていたのがよく、それを無肥料・無農薬によって光マイクロバブル植物活性栽培を試みることにしたというわけなのです。
そのレタスの様子は、いかがか?
やや成長速度において緩慢さがあるものの、立派に育ってきて、そのレタスの背丈が20㎝を越えたものまで出てきました。
今の時点では、「無肥料・無農薬でも育つではないか」という段階の認識に留まっていますが、その成長具合や味の問題を詳しく検討するつもりです。
レタスにおいても、無肥料・無農薬による光マイクロバブル植物活性栽培は可能、ひとまず、この域には到達することによって、「無肥料・無農薬」という「非常識」を、どうやら瓦解させることに成功したようです。
近々、その瓦解を木っ端微塵にまで発展させることができるかどうか、そのために、根の成長、葉っぱの蘇生、色つや、そして味などを詳しく調べることにしましょう。
こうして、非常識の野菜づくりが始まりました。
次回は、その第二弾を示すことにしましょう(つづく)。
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