せっかくの「天の時」を得ても、その「地の利」を活かすための主体的力量が伴わなければ、それは空回りになってしまいます。
人生も70年を経ると、「あの時、ああすればよかったのに!」といういくつかの反省が頭を過ります。
また、その反省のたびに、私は、将棋の木村第14世名人の次の言葉を思い出し、胸に刻んできました。
「将棋を指していて、急に勝ち筋が見えてくることがある。その時に、全力を出す」
同じような時に、羽生名人は、その運命の一手を指す指が小刻みに痙攣して揺れるそうであり、そのシーンをテレビで視たことがあります。
運が開けてきた時にこそ、全力を出し切って、その勝利を得る粘り、これこそが主体的力量において問われることなのです。
そして、知識も、経験も、そして気力も出し切って、次の一手を指し続ける、その過程において、自らの力量を成長させ続けるようになる、これが主体的力量の形成問題なのです。
新たな課題に立ち向かう場合、それに見合う十分な力量を持っているわけではなく、勝つために不足しているプラスアルファ分は、その時の成長によって補っていけるかどうか、あるいは、それ以上に成長分を伸ばすことができるかどうか、これらが問われることになります。
先のアジア大会における全日本のサッカー選手においても、この課題が問われ続けました。
要するに、好転してきた「天の時」に則して、自らがそれにふさわしい成長を遂げることができてこそ、その「地の利」と「人の和」を最高度に活かすことができるのです。
上記の木村名人は、その勝ち運が観えてきた時に、最高の力を発揮できるように自分を鍛え制御できるように訓練したからこそ、みごとな実績を残すことができたのです。
おそらく、羽生名人は、もっと、その力の発揮の仕方を洗練させていったのでしょう。
ですから、私どもが取り組む「命と健康の『ものづくり』」においては、その主体的力量を粘り強くアップしていくことが本質的に問われているのです。
そのためには、これまでの研究の成果を総結集させながらも、それだけに満足せず、そこから新たな創造を可能とする主体的力量の形成をめざし、さらにそれを洗練させていく必要があるように思われます。
より具体的には、次のことが必要になります。
①科学的研究力をアップさせ、新たな発見を持続的に生み出していく。
②その成果を技術開発に適用し、それを最高水準の商品づくりに役立てる。
③その商品を世に問い、その反応を調べるとともに、それを次の技術開発と商品化に活かす。
④上記の科学研究、技術開発、商品化のそれぞれの過程において、信頼できる方々との連携を深め、同時に広げていく。
これらを可能にしていく最初のステップは、これらについて「勉強好き」になることです。
そのために、ゼミ、セミナー、研究会において新たな知識を学び、それを討論によってより深めることが重要です。
また、科学や技術に関する研究を系統的に深める努力も必要になります。
さらに、そのための場づくりにおいても、新たな組織化も重要になってくるでしょう。
「人の和」づくりに関しては、それこそ、産官学や地域のみなさんとの様々な横型連携を幾重にも構築していくことも大切になるでしょう。
そして昼も夜も、その考究と思案に明け暮れるようになり、没頭できるようになることで、その一線を越えていくことが重要になります。
その明日のために、一重も二重も脱皮していくことに喜びと愉快さを覚えていくことができるようになると真に幸いです(つづく)。
(この春には、落ちた大葉の実から若芽がたくさん育つでしょう)
コメント
コメント一覧
■三十歳而立「三十にして立つ」
「他人から学ぶことを充実させ独立した自説を持てるようにしなさい」「血気盛んで 人生で一番の働き盛り」。
■四十歳「不惑」
「四十にして惑わず」「あれこれ迷うことがなくなった」。「狭い枠にとらわれるこ となく自由に物事を見ることが出来るようになった」単純 に「自分の道に疑いなく 進む覚悟が出来た」という意味合いとは少し異なる
■五十歳「五十にして天命を知る」
「天が自分自身に与えた使命を悟った」。自分の人生に於いて最も重要なものは何か を知る。「自分はどのような役割をもってこの世に生を受けたのか」を知る。「これ までの人生を振り返り自分の役割とは何かを考える」。
■六十歳「六十にして耳順がう」
「何を聞いても素直に受け入れることが出来るようになった」。若いうちは人の意見 に対して何かと自分の意見をぶつけたがるもの。自分の意見を持つことは重要。それ は時に相手の意見を言葉のままに理解することの障壁となるもの。「助言にしろ諫言 にしろ相手の言葉をそのまま聞くことが出来るようになった」。
■七十歳「従心」「七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」
「心のおもうままに行動しても、人としての道理を外れることは無くなった」。自分 の思い通りに振る舞っても倫理規範を外れることがない。言わば「人間理想の姿」。 「自分の欲望をコントロールすること」。「欲望に左右されない心の安定を持つ」。
今はプラス10年~20年で考える必要がありますね。ではでは。
30歳台末に博士論文が認められ、当時としては一番若い教授になり、それらにふさわしい仕事を見つけようとしましたが、それはなかなか見出せませんでした。
40台半ばに外国留学し、そこで人生を振り返ることができました。その後、マイクロバブルの発生装置が完成し、それを広島のカキ養殖に初めて適用しました。
その時には50歳台半ば、ここでマイクロバブルと共に人生を歩むことを決めました。マイクロバブルにおいて悟りのきっかけを掴んだのだと思います。60歳になってからは、何事も必然でベストなことだと思えるようになりました。さて、70歳になってからはどうするか。マイクロバブルの道理を粘り強く進める、これしかありませんね。あなたは、どうでしょうか?
さて、ドクターの歴史ですが、おそらくドクターのワイフの次に付き合いが長いといえるでしょう。15でT高専に入学し、通常5年で終わるところを7年かかってしまいました。振り返るとこれが結果的に現在に繋がっていることを考えると偶然ではなく必然と言えるでしょう。特に、最後2年間は重要な期間でありました。現実にこのブログでキャッチボールをしているわけですからね。
10代は勉強をせず、二十歳になってから急に慌てはじめ、結局26まで学生をやり就職。今振り返ると20代前半はある意味充実していたのだと。当時は全く思わなかったというより何て不幸なんだろうかと思っておりました。何せやりたくない勉強をやらざるを得なかったわけですから。
しかしながら、そのことが20代後半から30代後半までは楽過ごすことにができました。とにかく無茶苦茶な生活をしてましたので、体が悲鳴を挙げたのが30代後半。常備薬が必要となり、現在も続いております。オーマイガッ!!!
40から50までの10年は浮き沈みを繰り返しながら何とか過ごし、54にして決断・決意・決行の運びとなりました。この間、ドクターと光マイクロバブルのおかげで金の掛からない楽しみが増えたわけであります。
これからの6~7年いわゆる小生が還暦を迎えるまでが勝負。その結果がどうなるかは神のみぞ知ることであります。古稀を迎えたドクターは未だ血気盛ん。教え子がくたびれているわけにはいきませんね。光マイクロバブルの普及こそが小生に与えられた使命であると信じている今日この頃であります。
ではでは。