今回の沖縄訪問におけるもう一つの目的は、古き友人で、親交していたTK氏の「ご霊前」で親しく語り合うことでした。
去る5月に訃報に接したときには、それがにわかに信じ難く、残念でたまりませんでした。
かれと知り合ったのは、今から45年前、私が琉球大学に赴任して間もないころでした。
当時は、琉球大学が今の首里城跡にあり、教育学部の屋上のプレハブ研究室で、そこのI助教授と一緒にかれと出会いました。
たしか、海洋博に関するシンポジウムを開催するための会合であり、私は25歳、かれは30歳で、共に若かったころの出会いでした。
これを契機に、三人は、このシンポジウムの準備をするなかで親しくなっていきました。
とくに、TK氏ご夫妻には、それだけに留まらない「御恩」がありました。
それは、私がわずか2年で沖縄を去ることになり、それによって沖縄と縁がなくなってしまってはいけないと、今の家内を紹介してくださったことでした。
結局、これが縁結びとなり、沖縄に来た時は一人、帰りは二人になりました。
以来、TK夫妻とは、沖縄を訪れた際に再会し、親交を深める仲になっていきました。
昨年は、私の家内が、6月に「うるま市」でコンサートを行った折りに、私も沖縄入りし、TK氏と再会し、沖縄経済の現状について、かなり突っ込んだ意見交換を行いました。
また、沖縄経済に関する研究組織を立ち上げることになり、その第1回をTK邸で9月に行いました。
かれの専門は国際経済ですが、沖縄の基地問題にも関心が深く、私は、沖縄の農業や漁業に興味を抱いていましたので、TK氏とともに、それらを含めた沖縄経済研究をスタートさせることになっていました。
一方、かれは、沖縄ベトナム友好協会の会長を10年以上も務め、その有効促進に尽力されてきました。
この度も、国賓として招かれ、ベトナムの「フエ」で開かれた記念行事に参加されている最中に倒れられ、そのまま帰らぬ人になってしまいました。
かれは、いつも明るく、どんな困難を前にしてもプラス思考で臨み、一度、こうしようと決めると最後まで粘り強くやり抜くタイプでした。
また、人間的にもやさしく、人情味に溢れる大阪人でした。
さらに、学者としての見識を有し、留学先のザグレブで経済学の博士論文を書き上げましたが、その直後に戦争が勃発し、その提出が不可能になったそうです。
しかし、それでも諦めずに、今度は、テーマを変えてベトナム経済に関する博士論文を書き上げましたが、提出先の大学の先生が辞められてしまったために、その提出ができなくなってしまったと聞いています。
経済学者の場合、博士という称号は必須のものではないのですが、かれは二度にわたって、しかも異なるテーマでそれを書きあげたことには、学者としてのしっかりした見識をまとめようという姿勢が揺るがなかったからだと思います。
かれは、この2つの博士論文提出のことを恥ずかしそうにいっていましたが、その姿は、真に立派でした。
そのかれと、昨年は2度に渡って沖縄経済の自立に関する議論を大いに深めました。
その切り札的役割を果たすのが農業革新であり、そのために、沖縄に根ざした技術革新の工夫がなされた植物工場を誕生させることが重要であり、その議論を、かれと繰り返し行いました。
かれは、長く沖縄で生活してきたこともあり、それが実際にできてみないとよくわからないという理解でしたが、それが、いよいよ動き出すことになりましたので、真っ先に、その実物を見ていただきたいと思っていました。
しかし、それも叶わぬことになりましたが、きっと草葉の陰でご覧になり、微笑まれていることでしょう。
「とうとう、やりましたね。これで沖縄の野菜事情が徐々に変わっていくとよいですね」
このような、かれの明るい甲高い声が、どこかからか聞こえてきそうですね。
振り返れば45年、長きにわたっての「ご親交」、どうもありがとうございました。
どうか、安らかに、天国でお過ごしください。
真に微力ですが、託された沖縄経済の自立問題については、これからも、引き続き可能なかぎりの尽力いたします(つづく)。
コメント