本日は、温かい春日和でした。

 日一日と気温が増加して、室温が20℃を超えるまでになっていました。

 ここまでくると、植物たちが芽を出し、そしてすくすくと成長できるようになります。

 ここ国東にして丸5年が経過し、この間、素人ではありましたが、植物や野菜の栽培に傾注してきました。

 そして、昨年あたりからでしょうか、マイクロバブル栽培の特徴をよく理解できるようになり、今年は、それらの成果をさまざまに生かす時がやってきたように思います。

 その意味で、こうやって春がやってきたことには、格別の「うれしさ」を覚えています。

 今、その春が来て、私は、その野菜栽培において、初めての挑戦を行うことにしました。

 おそらく、だれも行ったことがなく、「そんなことが本当にできるの?」と、首を傾げられることでしょう。

 しかし、だれも過去に行ったことがない初めてのこと、ここに挑戦の価値があるわけで、だれもが行ったことのあることを真似て行うだけでは、ほとんど何の意味がありません。

 私たちは、この新しい挑戦を身体を張って求め続けた若者がいたことをよく知っています。

 かれは、吉田松陰を師とし、歴史小説作家の葉室麟によって「春風」と呼ばれた長州の志士の一人でした。

  そのかれとは、ご存知の通り、高杉晋作という若者でした。

 かれは、典型的な革命家、戦争技術者であり、ことことごとくの戦闘に勝利していくことができました。

 その端緒が、わずかな人数で実行した「功山寺の決起」でした。この功山寺は、山口県下関市の長府にあり、高杉らがよく通っていた料亭の近くにありました。

 その料亭で、この決起を思いつき、伊藤博文にして「動くこと疾風のごとし」といわしめた速断、速攻での決起行動だったのではないでしょうか。

 高杉が賢かったのは、この決起の後に、すぐに三田尻港に行き、藩の軍船を奪ったことでした。

 これで海上では、萩の長州藩を上回るようになり、下関を拠点にして戦いに臨むという作戦を展開したのでした。

 このような機転と行動力は、生まれつきの天性のみでは養われるものではなく、それに決定的に重要であったのが、かれの上海旅行であったということを、二人の作家が指摘しています。

 その一人が司馬遼太郎であり、かれは名著『世に棲む日日』のなかで、高杉の上海での行動を詳しく描いています。なかでも、

 ①西欧や中国の軍事技術の関心を持ち、積極的に現地の人々を訪ね、意見を交わして勉強した。

 ②とくに、機械工学に興味を示し、その文献を手に入れ勉強した。


ことが重要であったことが明らかにされています。

 また、もう一人の葉室麟も、高杉の上海経験が重要であったとして、大変天国の乱を起こした反政府武装集団との交流をリアルに描いています。

 かれにとって、子供や女性が参加する反政府組織の行動は驚きであり、これを目のあたりにして、かれの常識が大きく崩れ去ることになりました。

 その第1は、庶民が政府を倒そうとしていることであり、これを見て、かれは、「自分で幕府を倒す」という意識を目覚めさせたのだと思います。

 第2は、戦いは武士だけが行うものではなく、庶民も参加できるとして、後の「奇兵隊」を組織するヒントを得たことでした。

 軍事技術、機械工学の勉強、倒幕の意思、奇兵隊構想、こうなれば、高杉が単なる武士ではないことは明らかです。

 上海帰りの高杉は、当時の萩藩はおろか、日本中の武士たちと比較しても抜きんでていたのではないでしょうか。

 葉室に寄れば、「春風」は高杉の実名だそうで、この名の通り、はるか南の上海から、温かい風にのって「春風」が帰ってきた、久坂や伊藤たちは、そのようにきっと思われたことでしょう。

 さて、この国東にも、その温かい春風が吹いてきて、植物の発芽を促しています。

 高杉は、おもしろきことなき世の中をおもしろくすることに傾注し、新たな世の中を創り出すことに全力を注ぎました。

 それを今の世の中に適用するとすれば、何を致せばよいのでしょうか?

 それは、世の中の人々が吃驚するような新しいこと、そして、その豊かさによって自然に受容できること、さらには、その受容を行った自分を心から喜び、そして誇ることができることではないかと思われます。

 この実現は、かなりの難問ですが、それでも挑戦することには小さくない意味と意義がありそうです。 

 今、春がきて、温かい春の風が吹いて、私も、高杉春風には、はるかに及びませんが、新たな植物栽培の挑戦に分け入ることにしました。

 写真は、その開始を示す双葉です。

 双葉の真ん中から次の双葉が出始めていてかわいいですね。

 これからの成長に期待しましょう(つづく)。

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レタスの双葉