K氏が、2番目に指摘している問題は、専門職大学の卒業生が多様なサービス産業の分野に進むという前提のもとで、次のような疑問を示していることです。
「こうした職務のいずれかを18歳の段階で選択させ、4年間にわたってそれのみを学習させることにどれほどの意味があるのであろうか」
この指摘においては、18歳での職業選択をさせ、それのみを学習させることに対して意味を見出させないとされていますが、ここには、次の重要な問題点が存在します。
①職業選択は、当然のことながら学生自身が行っていくことですが、それは、入学試験を受ける際に決められることであり、その決定後に、その職業教育の学習を行う、これが、これまでの大学や専門学校、高専においてもなされてきました。
この時点で職業を決めることができなければ、大学に入学した後に決めることになりますが、そのような大学があるのでしょうか。
しかも、ある調査によれば、大学生の専門への進路を決める時期が遅くなればなるほど、専門家としての意識の確立ができずに、悩んでしまう事例が少なくないという問題も指摘されています。
②その専門職業の知識のみを教えるのではなく、専門知識の修得とともに、職業人として成り立つ基礎知識、素養を教えることは、これまでの職業教育を行う際に、どこでも普通に行われていることであり、「4年間にわたってそれのみを学習させる」のではないのです。
そこで、上記の観点から、K氏は、「専門学校への直接進学者数が90年代初めの28万人から最近の19万人へと、3割以上も減少しているのである」といい、次のように、結論的見解を述べられています。
「むしろ今、求められているのは、重層的・多面的な職業能力を育成することであろう(図)。多様で流動的な職務で必要となるのは、学術的知識ではなく、また職業知識、技能でもない。それらの基盤となる、思考能力などの汎用的なコンピテンス(能力)、さらには自己認識、意欲などが不可欠である」
「それが新しい社会的な要求を見つけ、それに応えるためのさまざまな技能を身に付ける基本となる」
たしかに、その通りであり、この見解には、技術を「技能」と取り間違えている点を除けば、同意可能です。
しかし、この見解は、次の問題が、その背景として述べられていますので、その再考が必要であるように思われます。
①その第1は、専門職大学の創設が、増え続けている「サービス産業」のためにあり、そのために、上記のコンピテンスが必要であることが強調されていることです。
先の審議の「まとめ」においては、必ずしも、その①の立場から、専門職業大学の創設をめざしているのではなく、むしろ、その主要においては製造業において活躍できる大学生を排出させることを指向しているように思われます。
この「サービス産業のための専門職大学なのか」、それとも「製造業のための専門職大学なのか」、この問題がより深く検討される必要があるように思われます。
②その第2は、重層的で多面的な職業能力は、どのようにしたら形成されるのかという問題です。
これには、具体的な実践に基づいて、思考能力を身に付けながら、それを前面的に発達させていく教育課程が不可欠です。
しかし、その発達においては、学術的知識、そして職業知識、さらには、技術と技能などが必要であり、それらが高度な水準で融合されることによって重層的で多様な実践を行うことによって初めて汎用的なコンピテンスも養成可能になるのではないでしょうか。
学術的知識、職業知識、技術と技能なしに、その思考力を養うことは、実践的には非常に難しいことではないでしょうか。
専門職業大学に関する審議の「まとめ」において、繰り返し強調されていることは、その「質の高さ」を確保することです。
それを可能にするのは、高度な専門性に裏打ちされた実践力を、様々な事例を通じて鍛錬し、その汎用的なコンピテンスを身に付けることが非常に重要であるといえます。
さて、K氏は、上記の問題点を指摘しながら、その後段においては、「大学自らが大胆な改革をしなければならない」ことを強調されています。
具体的には、教員組織と「教育プログラム」の「分離」、さらには、大学設置基準の質保障のあり方を、その設置基準にさかのぼって再検討することの必要性についても言及されています。
それらを考慮すると、専門職業大学の問題も大切ですが、それ以上に大学の改革が重要であるという見解が示されていて、そのことに、K氏の本音が色濃く反映しているように思われました(つづく)。
広重 東海道五十三次 関 本陣早立
「こうした職務のいずれかを18歳の段階で選択させ、4年間にわたってそれのみを学習させることにどれほどの意味があるのであろうか」
この指摘においては、18歳での職業選択をさせ、それのみを学習させることに対して意味を見出させないとされていますが、ここには、次の重要な問題点が存在します。
①職業選択は、当然のことながら学生自身が行っていくことですが、それは、入学試験を受ける際に決められることであり、その決定後に、その職業教育の学習を行う、これが、これまでの大学や専門学校、高専においてもなされてきました。
この時点で職業を決めることができなければ、大学に入学した後に決めることになりますが、そのような大学があるのでしょうか。
しかも、ある調査によれば、大学生の専門への進路を決める時期が遅くなればなるほど、専門家としての意識の確立ができずに、悩んでしまう事例が少なくないという問題も指摘されています。
②その専門職業の知識のみを教えるのではなく、専門知識の修得とともに、職業人として成り立つ基礎知識、素養を教えることは、これまでの職業教育を行う際に、どこでも普通に行われていることであり、「4年間にわたってそれのみを学習させる」のではないのです。
そこで、上記の観点から、K氏は、「専門学校への直接進学者数が90年代初めの28万人から最近の19万人へと、3割以上も減少しているのである」といい、次のように、結論的見解を述べられています。
「むしろ今、求められているのは、重層的・多面的な職業能力を育成することであろう(図)。多様で流動的な職務で必要となるのは、学術的知識ではなく、また職業知識、技能でもない。それらの基盤となる、思考能力などの汎用的なコンピテンス(能力)、さらには自己認識、意欲などが不可欠である」
「それが新しい社会的な要求を見つけ、それに応えるためのさまざまな技能を身に付ける基本となる」
たしかに、その通りであり、この見解には、技術を「技能」と取り間違えている点を除けば、同意可能です。
しかし、この見解は、次の問題が、その背景として述べられていますので、その再考が必要であるように思われます。
①その第1は、専門職大学の創設が、増え続けている「サービス産業」のためにあり、そのために、上記のコンピテンスが必要であることが強調されていることです。
先の審議の「まとめ」においては、必ずしも、その①の立場から、専門職業大学の創設をめざしているのではなく、むしろ、その主要においては製造業において活躍できる大学生を排出させることを指向しているように思われます。
この「サービス産業のための専門職大学なのか」、それとも「製造業のための専門職大学なのか」、この問題がより深く検討される必要があるように思われます。
②その第2は、重層的で多面的な職業能力は、どのようにしたら形成されるのかという問題です。
これには、具体的な実践に基づいて、思考能力を身に付けながら、それを前面的に発達させていく教育課程が不可欠です。
しかし、その発達においては、学術的知識、そして職業知識、さらには、技術と技能などが必要であり、それらが高度な水準で融合されることによって重層的で多様な実践を行うことによって初めて汎用的なコンピテンスも養成可能になるのではないでしょうか。
学術的知識、職業知識、技術と技能なしに、その思考力を養うことは、実践的には非常に難しいことではないでしょうか。
専門職業大学に関する審議の「まとめ」において、繰り返し強調されていることは、その「質の高さ」を確保することです。
それを可能にするのは、高度な専門性に裏打ちされた実践力を、様々な事例を通じて鍛錬し、その汎用的なコンピテンスを身に付けることが非常に重要であるといえます。
さて、K氏は、上記の問題点を指摘しながら、その後段においては、「大学自らが大胆な改革をしなければならない」ことを強調されています。
具体的には、教員組織と「教育プログラム」の「分離」、さらには、大学設置基準の質保障のあり方を、その設置基準にさかのぼって再検討することの必要性についても言及されています。
それらを考慮すると、専門職業大学の問題も大切ですが、それ以上に大学の改革が重要であるという見解が示されていて、そのことに、K氏の本音が色濃く反映しているように思われました(つづく)。
広重 東海道五十三次 関 本陣早立
コメント
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18歳時が問題となるのに、それより早い15歳時の問題にされないのでしょうか(ここのブログ著者様に対して批判しているのではありませんので、念のため)。「質」云々の以前の問題のように思われます。