映画『日本沈没』DVDの第二作を拝見させていただきました。第一作を意識されたせいでしょうか、随分、そのあら筋が変わっていました。
一言では、第一作が原作に忠実に描かれていたのに対し、第二作は、日本沈没をいかに阻止するかに焦点があてられていました。
田所博士も登場こそはしますが、まったく別人のようでした。なにせ、日本沈没を予知し、それがはじまると、今度はそれを阻止するために英知を注ぐという役割を演ずるのですから、まことに目まぐるしい仕事をなさる方として映っていました。
さて、田所博士の「直観」について一連の考察を行っていますが、ここでは、映画の第二作の田所博士のことを含めますと複雑になりますので、ここでは、原作と第1回の映画をもとにして考えていくことにしましょう。
田所博士が日本沈没という壮大な現象を予知し、それを証明していくのに役立ったのが、自らいわれた「直観とイマジネーション」でした。
そして、この直観には、「鋭さ」と「大きさ」が必要かつ重要であることが示唆されました。
そこで、問題は、この「鋭く、大きな直観」と「イマジネーション(想像)」をいかにして養うか、身につけるかにあります。
だれしも、最初から、このような資質を身につけているわけではありません。おそらく、田所博士も、そうだったにちがいなく、それを身につけるための必死の修行を繰り返されたはずです。
この修行の過程では、それこそ、「鋭く、大きな」ものを得るため、身につけるために、その逆のことは不必要になり、常人とは異なる思考や行動をとるようになります。いわゆる、世間では、これを「変人」と呼ぶのです。
おそらく、そのような世間の目は、かれにとっては、どうでもよいことだったのだと思います。
その直観において、「鋭くなれるか」、「大きくなれるか」のみが問題になったのではないでしょうか。
これは、私流にいえば、「直観の洗練化の修行」ということができます。
長岡技術科学大学の新原先生が指摘されているように、その未来を予知し、まず、その修行を好きになることが重要だと思います。
好きになれば、それを考える時間が増え、苦労をしても、それを苦労と思わずに済むようになります。
そして、苦労とも思わず考えたこと、考え抜くことが、いつのまにか習慣になり、それが普通になっていくのです。
「難しいことだ」と思っていたことが、考えているうちに、それが当たり前になって、「やさしいこと」になっていくのですから、不思議なものです。
物事の本質がわかり、やさしく理解できるようになると、そこから次々に新しい課題が観えてきて、徐々に「おもしろく」なってきます。
こうなってくると、ますます世間の常識とは異なることになります。「大きな直観」とは、必然的に「非常識」とならざるをえない「大きな非常識」である本質現象を考え、見抜くことだと思います。
ですから、新原先生が仰られた「30年間考え続けたアイデアがようやく実現できた。形になった」ということは、それだけ、非常識で大きなことだったのだと思います。
これについては、私も同じような経験があります。
マイクロバブルの不思議な現象について、「どうやって、それが解明できるのだろうか、到底できないことだと」と思いながら、それを長い間考え続けていると、なんとなく、その解決の糸口が見つかってくることがあるのです。
それが好きになり、好きになると寝ても覚めても考えるようになり、これで「考え続ける、考え抜く」ことが可能になります。
ですから、大きな直観を得るには、その前段階として、このような「粘り強い行為の連続」が前提となっているのだと思います。
そして、この直観を得るために考え抜く行為を繰り返すことが、その「鋭さを増す」ことに結び付く可能性がでてくるのではないかと思います。
こうして、この問題を考えますと、それが好きになり、好きになると考えるようになり、考えるたびにますます好きになることが何よりも大切ではないかと思われます(つづく)。
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