テレビの「龍馬伝」がクライマックスを迎えています。
薩長同盟を実現させ、徳川幕府と諸藩の力関係を変えさせ、そして土佐の山内容堂に大政奉還の建白書を書かせました。
そして時の将軍徳川慶喜が、この建白書の内容を受け入れたことで、260年続いた徳川幕府は、その終止符を打つことになりました。
これによって、龍馬の師匠の勝海舟をはじめ、世間の多くの人々は、この大仕事を成し遂げた中心人物が坂本龍馬であることを知るようになりました。
これによって、薩長軍と徳川幕府の大規模な戦いによって多くの命が失われることが回避されました。
さて、私が坂本龍馬に対して興味を持たせていただいたことは、なぜ、このような大偉業を成し遂げるまでになったのか、その成長に関することでした。
周知のように、龍馬は、土佐藩の下士の出身です。当時の土佐藩では、上士と下士において小さくない身分差別があり、上士が下士を理由もなく殺しても文句がいえないほどの状態にありました。
龍馬は、この身分制度の矛盾をいやというほど感じます。悔しい思いを抱きながら、必死で、その差別の解決方法を考えます。
そして、上士に対する憎しみを募らせるだけでは解決しないことを悟り、その仕組みを変えなければならないと思うようになりますが、それをどのようにしたらよいかがわかりません。
そのときに、友人の武智半平太との生き方の違いが参考になります。土佐のなかで、それを実現しようとする彼に対し、龍馬は土佐藩を脱藩し、剣術と航海術を勉強することを選択します。
ここで、龍馬の知が開かれていきました。とくに、師と仰いだ勝海舟の世界に開かれた見識を学ぶことによって、龍馬は自らが進むべき道を見出していきます。
ここで、武智半平太との生き方がさらに異なっていくことになりました。
幕府の航海訓練所が廃止され、勝海舟と離別したあとも、龍馬の志はますます大きくなり、長崎で外国人や商人と付き合うようになり、より現実化していきます。
龍馬は、長崎のことを「回天の地」と呼んでいますが、そこは、自らを広く成長させた地でもあったのではないでしょうか。
当時の長崎は、異文化の入口であり、そこに集まる人々も、歴史の最先端を行く人々でした。
龍馬は、ここで長州の高杉晋作と親しくなり、幕府の長州征伐に対しては共に闘い、薩長同盟の基礎を築いていきました。
また、薩摩の西郷隆盛とも親しくなり、経済的な同盟も含めて、薩長間の絆をたしかなものしていきました。
このように、歴史の激動の舞台で、さまざまな人々と出会い、実践をしていく中で、自らを成長させ、その最後の帰結が徳川幕府による「大政奉還」を実現することでした。
そして、この大偉業をほぼ一人で実現させたのが坂本龍馬だったのですから、いかに、龍馬の考えが時代において透徹し、先見性があったかということになります。
私が龍馬に感心したことは、この時代を変える鍵となることを自ら実践し抜き、その度に大きく成長していった姿にあります。
龍馬の「知」とは、このように時代をまっすぐに貫くものだったのですね。来月初めには、龍馬の生誕の地である高知に伺う予定です。
その龍馬の地において、その「知」のことをじっくり考えてみたいと思っています(つづく)。
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