武蔵は、翌朝暗いうちから、すでに旅支度を終えていました。
「今日は晴れか、暑くなりそうだ!」
昨夜から、武蔵の頭の中は、その「白い泡」の温泉のことでいっぱいになっていました。これぞと決めたら、どうしても、それをやり遂げないと済まない性格でした。
「俺はあの天下無敵の小次郎、ツバメ返しの小次郎と戦ったのだ!その俺が温泉に行くことに躊躇するはずがない」
要するに、温泉に行きたくなっただけのことでしたが、何か自分に言い聞かせたかったのでしょう。
武蔵は、こう思いながら自宅の木戸を閉めて家を出て行こうとしました。
「先生、こんなに朝早くからどうしたのですか? どちらにお出かけですか?」
誰にも気づかれずに出発しようとした武蔵であったが、朝の早さでは負けないお百姓の与太郎にはすぐに見つかってしまいました。
「いや、ちょっと、そこまで」
「そこまで? もしかして温泉ですか?」
「いや、温泉ではなく、ちょっと、そこまで」
「そうですか、ちょっと、そこまでの温泉でしょう、あの白い泡の・・・」
素直に、温泉にいくと答えることができない武蔵であり、武士でした。
「先生、今日は暑くなりそうですから、早く出かけられたらいいですよ!」
武蔵は、無言で与太郎の前を過ぎていきました。
「今日からは温泉でゆっくりしよう。武士とて温泉で身体を休めることも必要なことである。それは、あの小次郎も同じであろう!」
いまだに、何かにつけて小次郎のことを思い出す武蔵であり、それは、それだけ小次郎の存在が小さくなかったことを意味していました。
「それにしても、惜しい武士を失ってしまった。あれ以上の武士は、小次郎の後先には誰もいなかった。惜しいことをしてしまった」
旅すがら、小次郎のことが頭から離れることがなかった武蔵でした。
途中、村人から聞いていた「清外路村」の「一番清水」の水を飲みに行きました。
「うまい、こんなにおいしい水は飲んだことがない」
「お侍さん、ここの水はうまいでしょう。なんといっても、この一番清水の水は一番ですよ」
「ほう、この水は一番清水というのですか?」
「そうですよ、先日も、たしかサントウ・・・なんとかいうおもしろい歌人が、この水をおいしい、おいしいといって飲んで行きましたよ。サントウ・・・・」
「山頭火ですか? 彼はとてもおもしろい人ですよ。種田山頭火のことでしょう!」
「そうですよ、その山頭火さんですよ。この水がおいしい、おしいといって飲み続け、最後には動けなくなってしまいました」
「どうしてですか?」
「それが何も食べずに歩いてきていたので、喉を潤すだけでなく、おなかも潤そうとして腹いっぱいになり、動けなくなってしまいました。水では、一時しか空腹を癒すことはできないのに、かわいそうに、そのまま、ここで立てなくなり、私の家まで背負っていきました」
「それは、親切にありがとうございました。あれで、彼はとても純真でよいところがいくつもあります。本当に歌に行き、歌とともに旅をしている野人ですね」
「ほう、そうですか?そこで、その歌とやらを、学のない私に教えていただけませんか」
「彼のうたのなかで、私が最も気に入っているのは、『分け入っても、分け入っても、青い山』ですね。きっと、この辺を彷徨しながら詠んだ歌だと思いますよ」
「分け入っても、分け入っても、ここまではわかるんですが、その次の青い山、この意味がよくわかりません」
「山は青い色をしていることはわかりますが、それがどうしたというのでしょうか?」
「そうか、青い山の意味を知らないのか、それは無理もないことだ!」、武蔵は、こう思いながら、その意味を考えてみました(つづく)。
コメント