しとしとと小雨が降るなか、「散歩に出るかどうか」で迷いながら一日を過ごしてしまいました。風も冷たくなり、紅葉とともに、こちらでも秋が深まってまいりました。
公園では、すっかり落ちた銀杏の葉の清掃が始まり、これが片付くころには師走になってしまうのでしょうか、時の流れはまことに速く、さまざまな事柄が目の前を過ぎ去っていきます。
それでも、今年度における小さくない取り組みとなった東日本大震災支援プログラム大船渡プロジェクト(JSTOP)の進展に伴い、やや日常を見直すこともできるようになってきました。
これはある意味で当然のことかもしれませんが、その取り組みがあったおかげで、あるいは、そのために、なかなか進まなかった懸案事項もあり、その凸凹の収支を行うことにも配慮させていただいております。
その意味で、私はスーパーマンにはなれず、山頭火と同様に、「分け入っても、分け入っても、青い山」と思い悩む日々を過ごすことを常とさせていただいております。
しかし、このような凸凹が世に中に存在することは必然であり、そうであればこそ、世の中はおもしろいのかもしれません。
「おもしろい」といえば、先日、井上ひさし作『新遠野物語』を拝読しました。今回の東日本大震災支援プログラムのおかげで、この遠野の地に立ち寄らさせていただいたこともありました。
その折、この遠野が、岩手県の震災復興のボランティアの拠点となっていること、そして、珍しくて美味しい水や野菜がたくさんあることを知り、そのころから、この『新遠野物語』をぜひ読んでみたいと思っていました。
『遠野物語』といえば、その元祖に相当する柳田國男作のものがありますが、それを念頭に、井上さんは、その現代版ともいうべき物語を書き下ろされました。
彼としては、この遠野の近くに住んで医療関係の事務職の仕事をしたことがあり、その書きだしは、その時の自分が、この物語に登場しています。
東京の大学に入学したものの、自分が思っていたものと異なる勉強に落胆し、その大学を休学していたときに、その療養所の事務職員としてアルバイトをしていたようです。
その彼が、事務職として色々な仕事しながら、昼休みに聞こえてくるトランペットの音に興味を持ち、その奏者に会いに行って話を聞くことから、この物語が始まります。
原作とよく似た題材の物語もあり、井上さんオリジナルのものもあり、多彩な内容ですが、読み進めているうちに、それがおもしろくて引き込まれてしまいます。
遠野の地に語り継がれた話ですから、それがおもしろくなければすぐに廃れて消えてなくなってしまいます。
狐や馬、そして妖怪の話ですから、じつに奇想天外で、摩訶不思議、それゆえに、まことにおもしろいのです。
おそらく、井上さんは、柳田國男さんの原作をもっと現代風にして、さらにおもしろくしようと試みられたのだと思います。
そのために、されに現実感を出させ、地域も遠野から釜石へと拡大させてリアリズムを発展させています。
そういえば、井上さんのお母さんは、この釜石で料理屋をなされていたそうで、そこによく通ったという会社のトップの方の話を聞くことができました。なかなか気風のよい女性で、若い井上青年を励ましておられたそうでした。
さて、この遠野物語は、それぞれ短編で出来上がっていて、その「多様さ」と最後の「落ち」がおもしろいのですが、それに加えて、その最後には、「大どんでん返し」があり、これにも吃驚させられました。
これが、さすが井上流といわれるゆえんでしょうか、すべてが、「ふふふふ」と狐に抓まれたようになってしまうのです。
難しい、遠野民話を、しかも原作の柳田「物語」をやさしく、そして深く、さらにおもしろくしたのですから、ここに井上作品の「真骨頂」があるのではないかと思いました。
もし、井上さんが生きているのであれば、この古典となった「新遠野物語」を覆して、今の東日本大震災復興支援も視野に入れた、キツネや馬、そして鯉の話を見事に展開されたのではないかと思います。
「それにしても、今年の夏に、遠野で食べた塩トマトの漬物は美味しかった。
それから、そのときバスの中で東北地の方の文学について語り合ったQ高専のX先生との一時は楽しかった!」
まるで夢のような楽しい出来事でしたが、まさか、それも、「新遠野物語」に出てくる狐の仕業だったのではないか・・・・・・・。
そうであれば、なんだかX先生の顔が狐のように見えてくるのは、遠野のことを思い出したからでしょうか。不思議ですね。
私の脳裏には、その顔とともに、あの緑美しい農村が蘇ってきていました(つづく)。
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