朝、東京から一ノ関に向かいました。3月になって、寒さが心なしか和らぎ、途中の雪も少なくなっていました。
春は、もうすぐそこにきているのですね。
12時12分、それでも雪がちらほらと降る中、タクシーでI高専に向かいました。
前夜は、本日の記者会見のために遅くまで印刷していたことから少々寝不足気味でしたが、車が高専に着くころには、それも吹き飛んでいました。
「前日にしか記者室に投げ込みできなかったので何社集まるであろうか?」
やや心配して会見場に入りましたが、すでにテレビと新聞の記者がいて、すぐに会見を行いました。
まず、私が配布した記者会見資料をもとにプレゼンテーション(発表)を行い、その後に質疑応答が始まりました。
もちろん、記者さんたちはマイクロバブルのことを聞くのが初めてでしたので、それこそ初歩的質問から始まりました。
細かく、具体的に質問が相次ぎ、マイクロバブルなるものが単なる泡ではなく、とてつもなくすばらしい物質であることを徐々に理解し始めるとともに記者さんたちの目の輝きが増していきました。
同時に、質問する内容がさらに細かくなり、より具体的になり、配布された記者会見資料は、その記者のメモ書きでびっしり埋まってしまうほどでした。
こうして彼らの記者魂を揺さぶることができたせいでしょうか、その質疑応答が延々と続き、予定の40分はすぐに過ぎてしまいました。
また、この途中に遅れてきた記者が会見場に現れたために、再度最初から説明を行いました。
これで、最初に来ていた記者の理解がさらに進み、再質問を受けるということになり、結局、会見が2時間弱ほど経っても終わらず、私は次の予定もあって、その場を先に退出し、後はI高専のS先生に頼むということになりました。
記者さんたちにとっては、今回の東日本大震災支援プログラム大船渡プロジェクトの内容と成果が非常に興味深かったことから、それが、このような長時間の会見となってしまったのだと思います。
私は、すぐに会見場のI高専から一ノ関駅へ向かい、はるばる大分から来られたK先生を迎えることができました。
そしてK先生と一緒に大船渡へ、途中、陸前高田を通るときには、K先生が身を乗り出して撮影をされていました。
その時の陸前高田市は、珍しく干潮で、いつもは海に沈んでいる野球場や旧市街地をよく見ることができました。
ここに来ると、いつも思うのですが、大津波という自然のとてつもない破壊力を思い知らされます。
今わずかに残っているのは、あの一本松、そして海岸線沿いの破壊されたホテル、道の駅の建物、そしていつも海に沈んでいる野球場、陸の方ではわずかにコンクリートの建物であり、しかもそれらはみな1,2階部分が破壊し尽くされています。
この津波による破壊と略奪の後に、広大な平地があるのみでした。
「これをいったいどのようにして復興させるのであろうか?」
「どうすれば、再生が可能か?」
いつも考えさせられる空間であり、科学と技術のメスをどう入れるか、その真価が試される場所といえます。
つづく
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