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陸前高田市海岸で奇跡的に残った1本松(2012年2月10日、筆者撮影)

8日夜は、地元Sさんの紹介で、大船渡湾から東に山越えした海岸にある民宿に向かいました。

ここは以前に泊ったことがあり、その特別室の風呂が気に入り、それと同じタイプの風呂を「屋外にリビングがある家」においても採用させていただくという思いで深い宿でした。

また、このとき、現金が入っていた財布を落とし、客が拾って届けていただき、難を逃れることができました。

ここの当時の泊り客が警察官ばかりでしたので、財布が戻ってきた理由もよくわかりました。

もう一つが、この応接間にあったタンノイのスピーカーと真空管のアンプでした。このシステムから流れてくる音がすばらしく、しばらくの間聴き惚れていました。

この民宿の御主人が私に会いたいとのことでしたので、何だろうと思っていましたが、かれは、マイクロバブルにとても関心を持たれたようで、それからしばし、私にとっては、もちろん楽しいマイクロバブル談義をさせていただきました。

この場には、O高専のK教授も来られていて、彼の教養深い話も加わって、さらに盛り上がることができました。

そして、この日の泊りは、すっかりおなじみになった光潮荘でした。夜は遅くまで同行のYO氏とともに、翌日の講演の準備をしました。

翌朝は、早めに朝食を済ませ、8時から装置の引き上げ、撤去の作業を行いました。また、JSTのみなさんが現地視察に来られ、この対応もすることになりました。

みなさん、すでにお馴染みの方々ばかりで、バージンオイスターの試食をしながら、その味がさらに向上していることを確かめていただきました。

その後、装置のすべてを海から引き揚げてから、JSTのみなさんとともに、次の視察地の気仙沼に向かいました。

ここも、大津波ですべてが破壊され、流されたところです。しかし、Hさんを中心に若手が立ちあがり、独自に筏づくり、作業場づくりを行い、災禍に立ち向かう姿があり、まさに暗闇の中で一灯の輝きが放たれていました。

もともと、この地区の漁師のみなさんに対しては、I高専の保護者であるSさんからの問い合わせをI高専校長のT先生が受け、そのT先生からの紹介を受けて、この地域で講演を行ったがきっかけとなりました。

「大船渡だけでなく、気仙沼でもマイクロバブルを導入することを試してみたい」

この要望が寄せられ、手持ちの装置を貸すことで、試験をしていただいたところ、これが非常によい成果をもたらしたので、マイクロバブル導入を真剣に検討していただくことになりました。

この視察を短時間で済ませ、I高専に向かいました。おそらく、作業をしたときの服の着替えもできるかどうかと、時間のひっ迫を心配しておりましたが、なんとか、成果報告会の開会前に到着し、そそくさと服を着替えて会場に向かうことができました。

会場は、I高専の視聴覚室、100人程度が入れるところでしたが、ほぼそれが埋まり、多くのみなさまが参加されるなかで成果報告会が始まりました。

冒頭にI高専校長のT先生が挨拶され、ここに至った経緯が紹介されました。続いてJSTのAセンターからは、今回の東日本大震災支援プログラムにおける社会実装の意味、とくにそれが高専連携によって進められたことの意義が強く語られました。

これは、今回の高専連携の成果が社会的に認められた瞬間でもあり、JSTとしても初めての社会的認知を公の場で行ったもので、非常に意味あることでした。

この後、私が今回のプロジェクトの成果に関する包括的報告を行いました。

また、㈱ナノプラネット研究所YO氏が、マイクロバブルによる水質変化について、I高専W先生が、マイクロバブル育ちのカキについての非常に興味深いアミノ酸分析の結果を、さらにT先生が、マイクロバブル技術の水産加工分野への利用について報告をなされました。

最後にS先生からは、I高専における震災復興に関する3つのプロジェクトが進行していることが紹介されました。

また、討論においては、大船渡や気仙沼から来られた方々が熱心に質問され、会場が盛り上がりました。さらに、講演後も質問者が相次ぎ、個別の質疑と相談を受けることになりました。

とくに、I高専の4年生からも、マイクロバブル技術の可能性について質問を受けたことも印象深いことでした。

こうして、無事、今回のプロジェクトの成果報告会を成功裏に終わることができました。

それにしても、朝から慌ただしい1日となりましたが、これをやり遂げてほっとしたのでしょうか、反省会を兼ねた夕食会では、少し肩の荷を下ろすことができたような気がしました。

「明日は、再び、大船渡と気仙沼へ行き、現地見学の案内と装置の撤去を行い、午後からはI高専で高専教育に関する研究集会があるので、もう1日気を抜けない日となりそうだ!」

思えば、長くて速い1年でした。

「みなさん、本日の報告は、それがようやく始まったということですよ。これから、被災地のみなさんの生活再建が可能となるまで、可能な限りの努力をさせていただきますので、これからも、どうかよろしくお願いいたします」

ホテルに帰り、いつのまにか、私が成果報告会の最後に述べた言葉を思い出していました。

つづく