今から約60年前にタイムスリップしましょう。カザルスさんは、フランスの寒村プラ

ドに住まれています。母国スペインのフランコ政権に反対したために祖国を追わ

れ、この地に移り住んできました。住居の近くには小さな教会があり、彼は毎日そこ

に出かけて練習をしていますが、本日はどうでしょうか。

 今日は、初夏の晴れた朝、強い日差しわりに、風は、少し冷たくてすがすがしい

香りを乗せている。はたしてカザルスさんはいるか、予約なしの訪問なので、吃驚さ

れるかもしれない。私たちは、彼が毎朝練習しているという小さな教会を探し出し、

そこに近づいていった。

 少し緊張して耳を澄ますと、あの美しい調べが聞こえてきた。バッハの無伴奏チェ

ロ組曲7番の静かな出だしの部分である。彼は、この部分を繰り返し練習していた。

私が、とても好きな部分なので、彼への親近感がぐっと増していった。

 教会の入り口には誰もおらず、自由に入ることができた。私たちは、演奏中の彼

に気づかれないように、そっと入り、彼の練習を静かに聴いた。こんな至福の時は

なかった。世界最高の演奏を生で聴けるのですから、何も語らず、何も思わず、た

だひたすら、それを聴き入り、いつのまにか夢心地に陥っていた。

 「見慣れない顔ですが、どちらから来られたのですか?」

 迂闊にも、私は、彼が練習を終えて近づいてきたのにも気付かず、その音色に聴

き入って夢中になっていた。目の前には、笑顔のカザルスさんがいた。

 「はい、えーと、そのー、はい、日本からやってきました」

 「そうですか、遠い日本からですか。私も日本にいったことがありますよ。平和で

とってもよいところですね」

 かれは、こういって去って行った。あっというまの出来事であったが、私たちは、

あこがれのカザルスさんに出会えて、声をかけられたことだけで満足していた。

 「やさしい目をしていた。いきなり声をかけられたので吃驚したね」

 「でも、いきなり彼に会えたのだから、超ラッキーですね!」

 連れのKさんが興奮しながら続けていった。

 「そうですね。はるばるやって来たかいがありましたね」

 「そうですよ。明日も会えるでしょうか?」

 「明日の朝も同じ時刻に来てみましょう。今日は、現地のワインで乾杯ですね」

                                         (この稿つづく)

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