今日で1週間が過ぎました。そろそろお別れをいうときが近づいています。今朝
も、カザルスさんは、同じ時刻に来られて、同じ狭い部屋で練習をされることでしょ
う。初夏の涼しい風が吹いています。お別れの挨拶をするために、思い切って、こ
ちらから声をかけようか、どうしようかと思っているうちに、カザルスさんが近くを通
り過ぎて行きました。私どもにちらっと視線を注ぎながらでしたが、「そろそろ、お帰
りですか?」と尋ねられているような眼でした。
練習曲は、同じバッハの無伴奏チェロ組曲で、今日は10番を繰り返し演奏されて
います。この曲は、ゆっくりとした旋律で、どこか、もの悲しさを感じさせますが、後
半はそれを振り払うように格調高い旋律へと移行します。ここが、この曲の素晴らし
いところです。そして今日も、Kさんとともに聞き惚れてしまい、その場にうずくまっ
てしまいました。この力は何なのか、巨匠が奏でる本物の調べを心の底から体感
することができました。
そろそろ練習も終わりの時間になりかけ、「これで聞き納めだ!」と思い始めたこ
ろに、思わぬハプニングが起こりました。
彼が、いつもの方角とは異なる、私たちの方を向いて、なんと「鳥の歌」を演奏し
始めました。その演奏には、力がこもっていて、思わず「うめき声」が聴こえてきまし
た。「このように力を振り絞って演奏しているカザルスさんを一度も見たことはありま
せん」、思わず、隣のKさんが興奮してつぶやきました。その様は、力強く大空を舞
う鳥の姿そのものでした。
曲が終わり、私たちは思わず立ち上がって拍手をしていました。カザルスさんは、
笑いながら近づいて来られました。私たちは、練習の様子を聞かせていただいたお
礼をいい、「これから日本に帰る」という挨拶と感謝の念を述べさせていただきまし
た。
「そうですか、日本に帰られますか。ちょっと、そこまできてください」
彼は、こういいながら、すたすたと歩いて過ぎていきました。
「Kさん、これは、いったい、どういうことですかね」
「わかりません、とにかく、はぐれないように、ついて行きましょう!」
私たちが案内されたところは、ちいさなパブでした。いつもの席であるのか、カ
ザルスさんは、店主に軽く挨拶しながら指で3を示しながら、奥まったところにある
机の隅に坐りました。同時に、手際よく、白ワインがグラスに3つと数切れのゴーダ
チーズが運ばれてきました。
「お別れの乾杯ですね」
こういわれ、慌てて差し出したグラス同士が緊張のあまり、ぶっつかってカチカチ
となってしまいました。大変なことが起きていると自覚して、その緊張は極限に達し
ていました。しかし、彼は、我れ関せずで、練習の疲れを癒すためでしょうか、静か
にワインを飲んでおられました。 「この緊張はやばい、なんとかしなければ、何も
いわずに終わりになってしまう。なんとかしなければ」、こう思いながら、咄嗟にいい
ました。
「カザルスさんの生地のカタルーナ地方では、鳥が空を飛びながら『ピース』、
『ピース』と鳴くと聞いています。日本では、それが話題になっているのですが、本
当なのでしょうか?」
彼は、一瞬意外な目つきをされましたが、その後に笑いながら、こういいました。
「そうですよ、私のふるさとでは、みな鳥が、『ピース』、『ピース』と鳴きます」
「ほんとうですか。それは、すごいことですね」
こういいながら、Kさんは、その言葉をどうやら信用したらしく、これがきっかけで
話が一気に弾むことになりました。Kさんは、カザルストリオのベートーベン「大公」
の演奏が一番調和が取れていて良いといい、カザルスさんも黙って肯かれていま
した。これで、はるばるKさんもフランスまで同行したかいがあったと思いました。

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