昼ごはんを食べたときの最後に、飲み物として紅茶を頼みました。そしたら、三分経ったら飲んでくださいといわれ、砂時計がカップのそばに置かれていました。

 ご承知のように、砂時計とは、少しずつ落ちる砂の量で時間を計る装置のことです。この装置のガラスの部分から砂が落ちてしまうのを待てば3分経ったことを知らせてくれるというものです。

 この砂時計から、砂が落ちていくのを眺めながら、ふと、ある考えが浮かんできました。

 これを横に置いたらどうなるか、当然のことながら、いままで落ちていた砂は落ちなくなり、ガラスの管のなかで、砂は堆積したままになります。

 これをそのままにしておれば、永久に、この状態が続いたままになります。その砂は、横たわっただけなのです。

 社会や人々との関係のなかには、このようなことが起こってしまうことが珍しくありません。砂が動きださなければ、それは時を刻むことができないのです。

 昨今の政治のドタバタ、希望が見合えない世の中、停滞した科学技術、総崩れのベンチャービジネス、このような衰退指標ばかりが目立ちますが、それをいったいどうすればよいのでしょうか。

 こう思いながら、横たわった砂時計を元に戻してみようと思い、その砂時計を手に取ったところで、はたと迷ってしまいました。

 いったい、どちらを上にすれば元の通りになるのか、それがわからなくなってしまったからでした。

 そこで、次のように、その砂時計をいろいろと置き直してみました。

 ①砂が多く残っている方を上に置くと、それだけ、砂が落ちるまでに長い時間がかかります。

 ②砂の少ない方が上になれば、砂はすぐに短時間で落ちてしまいます。

 問題は、砂時計を横において時の状態がどうであったかによって、上記のいずれかになるのですが、砂時計の場合は、それが目に見えていますので、その判断を働かすことができます。

 ところが、この砂が観えない場合は、いったいどうなるのでしょうか。

 あと、わずかしかないと思っていた砂が、じつは、ほかの部分にたくさん残されていると、この場合には、気が遠くなるほど長い時間にわたって、砂が落ち続けることになります。

 また、砂時計の場合は、均一な砂ばかりですから、そのくぼみのところで、大きな砂が詰まって、流れなくなることはありません。

 ところが、砂は不均一である場合が多く、そのために砂詰まりが起きてしまうことも自然のことなのことです。

 この場合には、砂時計をゆするなり、上下に振動させることも必要になります。

 さて、この時計において最大の問題は、その砂は何かということです。

 その実体はやはり砂なのか、時か、あるいは、もっと価値ある「重要な何か」なのか、その砂にふかい思いを寄せるとおもしろくなります。

 その「おもしろいこと」は、「まじめに考えていく」必要がありますね。

 私の場合、1995年にマイクロバブル発生装置を完成させ、それを世に問うことができるようになりました。これは、砂が流れ出したことを意味します。

 それは、水産養殖の砂であり、ダム貯水池の砂でした。その後も、流れ続け、温泉であり、健康医療にも及ぶことになりました。

 さらに、食品や酒、農作物、そして、環境やエネルギーにも関与するようになりました。いろいろな彩の砂が輝きながら流れ続けてきたのです。

 この砂時計の様子を眺めると、その砂が下に堆積しているのは、いまだほんのわずかでしかないようです。

 そこで、これから時の流れが積み重なりますと、それらの砂の山も徐々にできあがることになります。

 さて、その砂山は、どこまで高く、そして、どのようにしっかりと積み重なっていくのでしょうか。

 こう思いながら、目の前の砂時計を再び上限反転させて置き直してみました(つづく)。

砂時計