初めて沖縄を訪れたのは1974年ですので、今から36年前のことです。祖国に復帰して2年目でしたので、その名残が随所にありました。

 車の右側通行、渋滞、バスには時刻表がなく、止まる合図も紐を引いて知らせる方式でした。一滴も出ない断水がたびたびある一方で、ステーキやハム、米の価格が非常に安く、それらには、祖国復帰のための特別措置がなされていました。

 私は、琉球大学理工学部の助手として赴任したのですが、これに伴って、私は、それまでの修士時代とは異なる分野の研究を行うことになっていました。「水理学」という専門から「土質工学」という分野へ移行する必要がありました。

 この初歩を学びながら、沖縄の土の勉強と実験をすることにしました。幸いにも、私の上司は寛大であり、この沖縄の土のことを勉強をしながら、沖縄の環境問題、とくに水問題にも取り組むようになりました。

 とくに、1975年からは沖縄海洋博覧会が開催されることになり、それに対してさまざまな問題が指摘され、それを総合的に調査する科学者集団にも参加させていただきました。

 この取り組みのなかで、深刻な事態が予想されていた「水問題」を私が担当するようになり、沖縄の自治体関係者や現地の本部半島の調査も行うことになりました。

 同時に、この海洋博覧会問題の総合的研究の成果を発表するシンポジウム実行委員会にも事務局員として参加することになり、この活動を通じて少なくない沖縄の科学者と交流することができました。

 そのなかに、田港朝昭琉球大学教授と伊藤嘉昭沖縄県農業試験場研究員(当時)がいました。

 田港先生は、教育学部の先生で歴史教育を専門に研究されていました。また、教育学そのものにも明るい方で、今振り返っても大変貴重なことをいくつも教えていただきました。

 また、伊藤先生は、ウリミバエの不妊化に関する実践的研究をしに、沖縄に来られていて、その豪快さ、研究者としての心構えについて、少なくない示唆を受けました。

 たとえば、本物の研究者になるには、土曜、日曜、祝日も研究室に出てくるようにならなければならないといわれ、それ以来、それを実現したいがために、その出勤を繰り返してきました。

 これらの錚々たるみなさまと、喧々諤々やりながらですから、私も相当鍛えられることになり、ホットな沖縄生活を過ごすことになりました。

 そのことを今振り返りますと、1)沖縄という見知らぬ土地に赴任したこと、2)専門が水理学からと質工学に変わらなければならなかったこと、3)沖縄の地域問題の研究に積極的に参加し、交流を深めたこと、これらが、私自身の変化に強い刺激を与えることになりました。

 周囲からは、どうして、そのような見知らぬ土地に行くのか、両親からは内定している大分県庁に行ってほしいと懇願されましたが、それには同意しませんでした。

 勉強をしていた専門を変えることについては、小さくない抵抗感を覚えていましたが、これには固執せず、とにかく沖縄に行って考えようと思えるようになりました。

 また、沖縄問題の研究に取り組んでみようと思ったのは、大学院時代に、自分の研究だけに専念するのではなく、幅広い知識を身につけ、実践も行うことが大切であると常々思っていたからでした。

 沖縄では、この3つの問題が絡み合いながら、その克服が実践的な課題となりましたが、今の私のスタイルは、この沖縄時代に確立され始めたのではないかと思います。

 その後、2年間で琉球大学から、今の徳山工業高等専門学校に赴任することになりました。ここで、専門が、前の水理学に戻り、その後、流体力学、さらにはマイクロバブルという具合に、専門が変化していきました。

 こうなると、専門とは、その時々で変わってもよいものであり、その方がよい場合もあるということではないでしょうか。

 若手研究者のみなさん、このような変化の事例があることも参考にされてみてください。


J0425538