マイクロバブル博士の「マイクロバブル旅日記」

本「旅日記」で、マイクロバブルの科学と技術に関する難しい情報をやさしく解説し、深く考えることによってマイクロバブルの物語をよりおもしろくします。また、それをゆかいに展開させていきます。これが、あたかも燎原の火のように、それこそ国境を超えて、どこまでも広がり、国民生活と産業に深く分け入ることで、マイクロバブル社会が形成されることをめざします。

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記念シリーズ

「鋭く、大きな直観」、この意味を考え続けてきました。本日は、さらに、そこに深く分け入ることにしましょう。まず、「鋭さ」についてですが、それが鋭ければ鋭いほど、すなわち、鋭さの水準が高くなると、物事に、それだけ深く切り込むことができます。次の「大きさ」にお
『佐藤浩先生回顧(1800回記念)(8)』の画像

田所雄介博士は,「鋭く、大きな直観」を用いて、「日本沈没」という近未来における予測において優れた洞察を示しました。佐藤先生において、これに匹敵する優れた洞察がなされた「お仕事」が、論文「新世紀の流体力学は何を目指すべきか」(日本流体力学会誌『ながれ』、2001
『佐藤浩先生回顧(1800回記念)(7)』の画像

  「佐藤浩先生の『鋭く、大きな直観』の原点は、広島での被爆体験にあった」  これが、その後の人生と運命を変える起点になりました。  「これは、あまりにも無残な殺し方ではないか。必ず、仇をとってやる!」  「何糞、負けてたまるか!」  これらの思いが、佐藤青
『佐藤浩先生回顧(1800回記念)(6)』の画像

  「『鋭く、大きな直観』は、人が生来持っている資質ではなく、いくつもの試練を経て、その格闘の結果として、初めて身につける可能性が生まれる能力である」 この命題が、徐々に明らかになりはじめています。 すでに、述べてきたように、田所雄介博士の場合には、その
『佐藤浩先生回顧(1800回記念)(5)』の画像

 このシリーズの最初に戻って、これまでの論旨の流れを整理してみましょう。 ➊主人公の佐藤浩東大名誉教授は、「鋭く、大きな直観」の持ち主であった。 ❷同じく「鋭く、大きな直観」を有していたのは、「日本沈没」を予知した田所雄介博士(元岩手大学教授、小説上の架

小松左京著『日本沈没』の上下巻を分けると、前者では、日本沈没の前兆を述べることと、その確かな予測を行うことが最も重要な内容でした。そのために、田所雄介博士の登場と活躍が必要だったのです。これに対し、後者では、日本沈没が実際に起こって行く様子を中心に展開さ

小松左京著『日本沈没』上巻における主役は、地震学者の田所雄介博士でした。すでに岩手大学を定年退官し、ご自分で地震研究所を切り盛りし、その予知に関しては、第一線の民間研究者となっていました。しかし、生来のぶっきらぼうさに加えて、妥協を許さない見解を常に保持
『佐藤浩先生回顧(1800回記念)(2)』の画像

久しぶりに記念シリーズの記事を書くことになりました。それにふさわしいテーマはあるか、と自問し、即座に、「佐藤浩先生回顧」と決めました。折から、日本高専学会誌に「日本高専学会における佐藤浩先生の足跡」という6頁ものの追悼文が掲載されましたので、これを踏まえて

この3月までで、大学および高専教員の38年を終えて、新天地の、そして新居での生活が大分県国東市で始まりました。 もともと大分県の宇佐市に生まれ、高校までは宇佐市四日市というところにいましたので、44年ぶりに故郷に帰ってきたことになります。 空は蒼く、水は清

森村誠一の小説において「日本の地中海」と例えられた国東半島に来て、8カ月が過ぎようとしています。 冬の季節になっても温かい太陽の陽射しと風が吹く、ここ国東市武蔵町の向陽台です。 昨年度は、東日本大震災支援プログラムを始めとしてたくさんの仕事が一挙にあり、

国東の秋を迎えて吃驚(びっくり)したことがあります。それは、果物の梨(なし)のことです。 この梨の吃驚現象で、すっかり、梨の食概念と習慣が変わってしまいました。 これまで、梨といえば、鳥取産の「20世紀梨」が有名で、山内県では、この梨が通常出回っていま

北の大地から帰ってきた翌日に、この夏に執筆した論文の雑誌が届いていました。 A5版の小冊子ですが、著者は私を入れて3人、2カ月に1回、細切れにして逐次出版するのがこの雑誌の特徴のようです。 私の題目は、「高専50年から何を学び、何を展望するか(下)」でした。

マイクロバブル博士のコメントの続きです。 なにせ、このK1さん、少々のことでは動じないといいますか、とにかくスケールがかなり巨大なので、やることなすことが違うのです。 元の職場である国営放送では、二人の「英雄」として今でも有名な方ですから、やることなす

荷物の中から出てきたもう一つの資料はH君のものでした。彼とも、忘れることができない思い出があります。 たしか、彼が高専1年生の頃だったと思います。当時、私は剣道部の顧問教員でして、学生たちと一緒に放課後は剣道で汗を流していました。 こう見えても、剣道は小

その後、N君は、立派に卒業研究をやり遂げ、N大学に編入学し、大学院修士課程までいって大手建設会社に就職して、風の便りでは、活躍されているようです。 あの茶色の髪の毛の時、あのまま高専を退学しておれば、彼の人生はまったく違う方向に流れていったでしょう。 後

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