二人の「ダ・ヴィンチ」研究(14)

 高野長英のヴェロッキオ研究については、宇和島の伊達宗城公の支援が継続的になされていました。

 そのなかに、レオナルド・ダ・ヴィンチの詳しい伝記ともいえるヴァザーリの文献がありました。

 これは、今でも、レオナルド・ダ・ヴィンチ論としては非常に重要な資料であり、幼いころからのレオナルドの考えや行動が詳しく記されていました。

 とくに、ヴェロッキオ工房に弟子入りしてからのレオナルドの作品についても、詳しい解説がなされていました。

 「崋山さん、この度、宗城公から届いた新たな資料から、ヴェロッキオによる弟子のレオナルドの教育方法がよくわかりました。

 やはり、ヴェロッキオは、非常にすばらしい芸術家であり、さらに優れた教育家でもありました。

 かれの、この2つの特質がなかったならば、レオナルド・ダ・ヴィンチの成長はあり得なかったのではないかといえそうです
 
 「やはり、そうでしたか? ヴェロッキオさんは、レオナルドをどのように成長させていったのですか? 

 たしか、レオナルドの弟子入りは14歳のときでしたね」

 「はい、そうです。私たちでいえば、それは元服の歳です。

 これから、武士として、医者として生きていくことを教えられました」

 「しかし、レオナルドは、ヴェロッキオ工房という職人のところに弟子入りさせられたのですよね。

 それは、レオナルド自身が希望したことなのですか?

 この件についてはレオナルドの父親が熱心に尋ねてきたそうですね」

 「その通りです。当時のかれの父親には、たくさんの子供がいましたので、レオナルドのことをあまり真剣に考えていませんでした。

 かれの事務所のすぐ傍にヴェロッキオの工房があり、ヴェロッキオからも公証人としての仕事を頼まれていましたので、レオナルドに絵を習わせるべきかを尋ねました。

 そして、レオナルドには絵の才能があるかもしれないと思って、かれが描いた4枚の絵画が幸いであり、ヴェロッキオの心を捉えたのでした。

 その絵を見せられたヴェロッキオの方は、黙っていたままでしたが、その時にレオナルドの絵画の才能を見抜いていたことから、すぐにその弟子入りを受け入れたのでした」

 「長英さん、ヴェロッキオは、どのようにレオナルドを育てたのですか?

 その内容が気になりますね!」

優れた教育環境

 「やはり、そうでしょう! それには、当時のヴェロッキオ工房が置かれていた環境が深く関係しています」

 「といいますと、どんな環境ですか?」

 「その第1は、職人たちが組合をつくり、互いに勉強し合い、協力しながら仕事をするという自立した職業人だったことです。

 いわば、かれらは自由人であり、城主や教会から依頼されて仕事をするが、それに縛られて従属することは決してなかったのです」

 「藩主が絶対的命令者である、わが国とは大きな違いがありますね」

 「とくに、ヴェロッキオ工房は、当時のフィレンチェ一の大富豪であったメディチ家の後押しがありましたので、それこそ、最高水準の仕事を請け負うことが多く、その工房の名声は、フィレンチェにおいても指折りの工房でした。

 すなわち、ヴェロッキオ工房を支える強力な経済的支援者(スポンサー)がいたのです。

 これが第2の優れた環境だったのです。

 この重要な仕事を熟していくために、ヴェロッキオは、一流の弟子たちを育て、かれらに大活躍してもらう必要がありました。

 そこが、いくらすばらしい絵を描いても、それを売るのに苦労するわが国とは大きな違いですね」

 「なるほど、素晴らしい芸術作品を作成すれば、それをいくらでも購入してくださる方がいるのと、いないのでは雲泥の差がありますね」

 「そうです。当時のイタリアにおいては、ルネサンスと呼ばれる文化芸術の爆発現象が起こっており、城主や教会、有力な商人たちが、その復興と爆発を喜び、こぞって優れた作品を評価していったのです」

 「そうですか。我が国においても、そのような萌芽が、織田信長に見初められた千利休やその弟子の古田織部などに、やや似た現象がありましたが、それも秀吉の時代において絶やされてしまいました」

 「そうですね。わが国とは比較にならないほどの文化芸術の土台が、当時のイタリアには形成されており、その担い手が組合を造って自由人として仕事をしていったことが、わが国とは大きく違いますね」

 「長英さん、レオナルドを巡る環境の特徴については解りました。そこでお尋ねしますが、ヴェロッキオは、レオナルドに何を教えていったのですか?」

ヴェロッキオの教育方法

 「当時のヴェロッキオ工房には、次から次へと大きな仕事が舞い込んできていましたので、それらをどう受け入れ、同仕上げていくかの議論が毎日のように熱心に繰り広げられていました。

 具体的で実践的な技術を駆使してしか仕上げていくことができない依頼ばかりでしたので、若いレオナルドのような弟子たちも、その議論に参加して、その一端を担っていくことになりました。

 この議論には、数学、解剖、古美術、音楽、哲学など多岐にわたっていたそうです」

 「耳慣れない言葉が出てきましたね。まず数学とは、どんなものですか?

 「これは、数字を扱う学問のことです。

 レオナルドは、かれの目標だったアルベルティが数学を大学で勉強していたことから、その論文を手に入れて熱心に勉強しています。

 かれは、絵を描くのに遠近法を駆使したのですが、それを理論化していくために、数字や数式が重要な役割を果たすのです」

 「ちょっと待ってください、数字は解りますが、その数式とは何ですか?」

 「それは、数字の並べ方を式、すなわち文字で表す方法のことです。

 崋山さんが絵を描くときに、近くのものは大きく見え、遠くのものは小さく見えますよね。

 これを数値で表して考えることを『遠近法』といいますが、それを数字の理として考えることことを遠近法の数学というのです」

 「なるほど、素晴らしい学問ですね。

 他のこともよく解らないことばかりですが、解剖とは何ですか?それから哲学についても、それが何なのか、皆目解りません」

 渡辺崋山は、高野長英から聞かされるレオナルドの話に驚嘆しながら、熱心,質問をし続けました。

 これには、高野長英が伊達宗城公に迎えられた折に、そのかれから与えられた膨大な西洋の軍事、文化に関する資料を読破していったことが非常に役立ちました。

 この時点において、高野長英は、有一無二の西洋通の学者であり、とくに鶴見俊輔によって、長英が、わが国初の西洋哲学者であると言わしめたのでした(つづく)。

参考文献:『レオナルド・ダ・ヴィンチ』上、ウォルター・アイザックソン、文芸春秋

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伊達宗城像(ウィキペデイアより引用)