旅の跡(3)

 そろそろ、この記念シリーズも終わりに近づいてきましたので、森村誠一さんの芭蕉観を参考にして、芭蕉の偉大な杖跡を振り返ってみましょう。

 この芭蕉観は、ご本人が、松尾芭蕉が歩いた奥の細道を約150日間にわたって2400㎞を踏破した道を実際に、森村さんが辿ったことによって形成されたものです。

 それだけ、かれにとっても奥の細道は重要な文学作品であり、かれの人生観にも寄り添うことができたのではないでしょうか。

 その森村芭蕉の旅の終わりに際して、かれは芭蕉の杖跡の全体を振り返りながら、その偉大さを次のように考察されています。

 その第一は、それまでの「遊び言葉」、「ダジャレの歌」として考えられていた俳句を純水の文学作品として改変されたことであり、その代表作が「奥の細道」であったことでした。

 ここでは、俳句と文章が一体化されており、互いに、その役割と効果が響き合うように認められています。

 周知のように俳句は、わずか17文字で表す文学作品であり、それゆえに抽象化された文字によって表現されることが多く、その文字がどのような意図で、何を示しているのかについては、読者の解釈が多様になされる可能性を有している一方で、その解釈が難しかったり、意見が分かれたりすることがよくあります。

 その意味で、芭蕉は、その谷間を埋めるために、奥の細道の旅の後において2年という長き歳月をかけて、その俳文一体の作品をみごとに仕上げていかれたのだと思われます。

 第二は、その結果として何が語られ、何が後世において響き合うことになったのか、この本質問題に関することです。

 ①森村芭蕉は、これに関連して、なぜ、高名な多数の弟子たちを全国各地に持つようになり、一大俳句連邦が築かれていったのかについて考究しています。

 ②また、藤堂家の支援を受けながら、水道工事の幕府からの請負工事の親玉となって、数百人の労働者を雇い、切り盛りしていたことから、人と金には困らなかったにもかかわらず、わざわざ、乞食のように貧疎な旅に出かけたのかについても、なぜかと分け入って問題の所在を探究されています。

 ➂さらに、高名な弟子たちのなかで、曽良だけを連れて奥に細道に分け入ったのでしょうか?

 曽良は、真に優秀できめ細かく芭蕉の世話をしたことが、かれの克明な日記から明らかになっています。 

 かれは、奥の細道の旅を終えた後に、江戸幕府の地方調査員としての身分であったことが判明していますが、そのかれとは、山中温泉において、かれの胃腸の病気を理由にして芭蕉と分かれての行動をとるようになりました。

 通常は、病気が重ければ、曽良の方が山中温泉に留まって療養するはずなのに、それとは反対に、かれのほうが先に旅立つという、おかしな別離がなされたのでした。

 しかも、芭蕉が後から遅れて宿屋に着くと、その宿賃が曽良によって先に支払われていたこともありました。

 また、伊達藩の領地においては、金山の詳しい見聞を芭蕉と曽良はともに行っています。

 当時の幕府の権限は、白河の関までであり、伊達藩領に入ってからは、なかなか詳しい情報が手に入らなかったことから、この金山に関する情報は、二人と幕府にとっては、喉から手が出るほどにほしいものだったのでしょう。

 ①に関しては、芭蕉を受け継ぐ現代の弟子といわれている木更津高専名誉教授のI先生に、芭蕉のことを、こう尋ねたことがありました。

 「芭蕉は、曽良と二人だけで奥の細道に旅立たれましたが、行き先々でいろいろな方々と出会っています。

 そのとき、どのような対応がなされたのでしょうか?

 また見知らぬ方々と、どのような交流をなされたのでしょうか?」

 I先生は、次のように答えられました。

 「松尾芭蕉は、聞き上手、話し上手でした。

 見知らぬ人々に出会ったも、相手のいうことをよく聞いて、その人たちの立場に応じて喜ぶような話をすることができました。

 また、句会においては、句聖としてのみごとな俳句を披露することによって、そこに集まった人々を感動させたのです」

 「なるほそ、それは、見知らぬ人々との出会いを大切にして、むしろ自ら、その出会いを欲して旅をしたということでもあるのですか?」

 「芭蕉は、水道工事の元締めとしての仕事をしていましたので、どんな荒くれの人々でも適切に対応することができたのだと思います。

 『奥の細道』の書き出しに、『月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也』と述べて李白の詩を引用していますが、人だけでなく、月日も、そして年までも旅人にしてしまうほどですから、それだけ、旅に出て自分を振り返ることを大切にしていたのだと思います」

 「それは、どういうことでしょうか?

 芭蕉にとっての旅とは、いったい何だったのでしょうか?」

 この問題は、上記の②と深く関係します。

 「よい質問ですね。芭蕉は、わざわざ、奥の細道にも出かけなくても、たくさんの高名な弟子が居て、名声を博していましたので、そのまま江戸で暮らして余生を過ごすことができたはずです。

 しかし、それは、芭蕉にとっては、俳道を究めていくことには決して結びつかないことでした」

 「といいますと、それはどういうことでしょうか?」

 「かれは、未知の旅のなかにこそ、自分が求める句魂が存在しているのではないかと考えていたのです」

 「その句魂とは何ですか?」

 「それは、松尾芭蕉の人生哲学そのものであり、その探究の姿勢が、かれの名言の『不易流行』に示されています」

 「不易流行、それは、どういう意味を有していますか?」

 「不易とは変わらないもの、流行とは、時代とともに変わっていくもののことです。

 旅の日々は、毎日変わっていくものですが、そのなかに不朽の価値を見出していく、その統一的理解を松尾芭蕉はめざされていたのです。

 これは、かれの人生哲学そのものの吐露でもあり、そのことが、読者に深い感動を与え、俳句そのものを深く理解させて、今日のように世界の隅々まで普及させた原動力になったのです」

 「なるほど、松尾芭蕉の人生哲学が俳句によって示されたことに大きな意味と力があったということですね。

 I先生、どうもありがとうございました」

 こうして、I先生とは、このような芭蕉談義を皮切りに、蕎麦打ちのこと、「たたら」による日本刀製作、上総掘り、さらには高専教育論などについて大いに話が弾んでいきました。

 かれは、将棋の駒で有名な天童市の出身であり、奇しくも、今の私は、その天童市において生ったリンゴを美味しくいただいております。

 このリンゴを毎日いただくたびに、I先生と親しく語り合い、時には口角泡を飛ばして議論し合ったことを懐かしく思い出しています。

 こうして、森村芭蕉とともに、改めて松尾芭蕉の俳句を学ぶことができましたので、再びI 先生と芭蕉談義の花を咲かせてみたいですね。

 I先生、ますますのご健勝を祈念いたします。 

(つづく)。

hisamatu20053.21

ありし日のI先生(左)と筆者(中央)、右は久松俊一先生(木更津高専名誉教授)