福 井

 山中温泉で、曽良と別れた松尾芭蕉は、弟子の北枝とともに福井へ向かいました。

 芭蕉は、金沢にて初めて会った北枝が、「ちょっと、そこまで」といいながら、曽良の代わりとして尽力してくれたことを、非常にうれしく思っていました。

 しかし、かれは、その北枝とも天龍寺で別れることになり、その余波(なごり)を惜しんで次の句を詠まれています。

 物書きて 扇引きさく 余波かな

 天龍寺から福井に向けては芭蕉の一人旅になることから、それまで芭蕉に深く尽くしてくれた北枝との別れに格別の余波を覚えたのでしょう。

 当時、夏が過ぎて不要になった扇子を捨てる、いわゆる「捨て扇」という風習があったそうです。

 その捨ててしまう扇子に、大切な句を書き込み、余波を惜しんだ芭蕉の心情が偲ばれる句といえるでしょう。

 福井に着いた芭蕉は、10年来の弟子であった等裁(とうさい)の棲み処を訪ねたそうです。

 もしかしたら、すでに逝ってしまっているかもしれないと思って訪ねると、等裁は遊びに出かけていると、かれの女房に、つっけんどんにいわれたにもかかわらず、それよりも等裁の無事の知らせの方が重要だったのでした

 等裁は、芭蕉が一人で侘しく旅をしていたことを配慮して心を込めて慰労しました。

 芭蕉も、それがうれしかったようで、かれのボロ家に二日も宿泊して語り合ったのでした。

 さて、福井といえば、かつての名優の宇野重吉さんの出身地です。

 宇野さんは、映画「キューポラのある街(浦山桐郎監督第1回作品)」で主演し、最年少でブルーリボン賞を受けた吉永小百合さんを、デビューの前から親身に支援されていました。

 宇野さんは、心に残る名演技をされていました。

 幼いころに観たNHK大河ドラマ『赤穂浪士』における「蜘蛛の陣十郎」役、石原裕次郎主演の『風速四十メートル』において、石原の父親で「工務店の技師長」役(工事現場においても蝶ネクタイをしていた)、映画「男はつらいよ」第17作「夕焼け小焼け」での画家「池ノ内青観」役、そして晩年の「宇野重吉一座」の移動劇場における「三年寝太郎」などに、いつも心を躍らされ、そして励まされてきました。

 宇野さんは、俳優であるとともに優れた演出家でもあり、その演出指導には定評がありました。

 時には、厳しく俳優のみなさんを指導されていました。

 その指導において、時に気難しくなった折に、「福井の蕎麦」の話をすると大いに喜ばれたそうです。

 「福井の蕎麦は日本一」、これが、かれの口癖であり、自慢でした。

 大学生の時に、その宇野さんが新聞記事に掲載されていました。

 そこには、髪の毛をハサミを用いて、自分で散髪しているといっておられました。

 自分の髪の毛だから、他人に、どう見られるかを気にしなくなれば、自分でバッサリと髪の毛を切ることができるといっていました。

 私は、その心意気に偉く感激し、「今から、宇野さんに習って、自分の御髪の毛は自分で切る」と決めました。

 以来、おそらく半世紀以上も散髪屋に行かず、それを敢行してきました。

 おかげで散髪代も相当に節約できました。

 これも宇野さんのおかげです。

 さて、蕎麦の話に戻りますが、おそらく、等裁は、その名物の蕎麦を芭蕉に、ご馳走したのではないでしょうか。

 森村芭蕉も、その名物の「けんぞうそば」を賞味し、尾花沢の蕎麦に匹敵すると舌鼓を打たれたようです。

 また、その格別に美味しい蕎麦をいただいた後に、少々眠気を覚えていたまま、天龍寺において座禅を行いました。

 その折、警策で思いっきり打たれ、あまりにも痛かったことで途端に目が覚めたそうでした。

 また、社会派作家らしく芭蕉には詠めない、次の句を詠まれています。

 原発の 毒を囲いて 桐の花

 この道中において、桐の花がたくさん咲いていたそうです。

 もちろん、芭蕉の時代には原発はありませんでした。

 芭蕉が生きていたら、この解決困難な「原発問題」を、どう詠んでいたでしょうか(つづく)。

kennzou
   けんぞうそば(「けんぞうそば」HPより引用)