奥の細道における最大の謎
松尾芭蕉一行(弟子の曽良と北枝)は、山中温泉において8日間の湯治において心身をリフレッシュすることができました。
また、その間、愛弟子となった桃夭(宿坊和泉屋の主人であり、当時は14歳、本名は粂之助)から厚いもてなしを受けました。
松尾芭蕉は、自らを桃青と称していましたので、その一文字を粂之助に与えたことに、かれの弟子に対する思い入れの強さが現れています。
その桃夭が、いかに師匠の来訪を歓迎したかが、次のかれの句に示されています。
旅人を 迎えに出れば ほたるかな
そして山中温泉から那谷寺に向かおうとしていた時に、曽良から思いも寄らぬ相談を切り出されました。
それは、金沢以来胃腸を痛めていた曽良が、芭蕉の伴から外れて、先に旅立ちたいと願い出たことでした。
森村誠一さんは、普通なら、体調が悪いというのであれば、曽良が自分だけ山中温泉に残って療養するというはずなのに、体調の悪化を理由にして、先に旅立つのはおかしい、ここに最大の謎があると指摘されています。
おそらく、その理由は、曽良の体調悪化のほかに別の理由があったのではないかと、森村芭蕉は推察されていました。
せっかく、曽良と一緒に、ここまでやってきたのに、そして、まもなく最終目的地の大垣まであと少しというところで、曽良が居なくなることに驚き、そして寂しさを募らせることになりました。
曽良は、その別れの際に、次の句を詠まれています。
行き行きて たふれ伏とも 萩の原
旅先で、倒れ伏すようなことになろうとも、そこが萩の原であれば本望と考えよう、という曽良の悲痛な覚悟の思いが込められています。
これに対し、松尾芭蕉は、次の句を返したとされています。
今日よりや 書付け消さん 笠の露
曽良との別れに際し、これまでかぶってきた笠に書いてきた「同行二人」の言葉を消すことになるのだなぁーと思われたのでしょう。
金沢の一笑に続いて、今度は、同行二人として苦楽を共にしてきた曽良とも別れることになったのかと、芭蕉は寂しさを深く覚えたのでした。
こうして、芭蕉は北枝と共に小松の那谷寺を訪問しました。
ここは、東北横断路における最大のスポットであった立石寺に並ぶ寺でした。
森村芭蕉も、ここを訪れ、立石寺を男性的と表して、この那谷寺は女性的で、その白い意思のなかに建立された社屋は、まるで女性の子宮のなかにいるようだと観察されて」いました。
芭蕉は、この那谷寺の絶景を眺めて、次の名句を詠まれています。
石山の 石よりも白し 秋の風

那谷寺境内の奇石(石川県HPから引用)
さて、ここで、曽良は、芭蕉と、なぜ別れたのか、しかも、自分の体調が悪いといいながら、先に立ったのか、この謎に迫ることにしましょう。
森村芭蕉は、たとえ厳しい師弟関係の仲でありながらも、長い旅のなかで、互いにすれ違う部分が出てきたからではないかと推察されていますが、それ以上、深い探求はなされていませんでした。
私も、なぜであろうかと思いを巡らしていた矢先、NHKBS1における「英雄たちの選択」という番組において松尾芭蕉の奥の細道に関する番組が放送されていました。
これ幸いと思って、それを録画し、数回繰り返し視聴しました。
ここで、最近の松尾芭蕉の「奥の細道」に関する研究成果が報告され、同時に彼の人物像に関するエピソードが興味深く示されていました。
その一つが、三重の伊賀地方から江戸に出てきて俳句の師匠となった芭蕉は、俳句のみならず、今でいう土方の元締め的仕事をしていたことが示されたことでした。
その土方としての事業は水道工事であり、それは当時の徳川幕府の直轄事業でした。
すなわち、幕府から水道事業を行うことを任され、数百人にわたる人夫を雇い土木事業を行っていた元締め的仕事をしていたというのです。
これを円滑に行うには、人夫集め、仕事の段取り決め、土木事業の推進、賃金の支払勘定を行うことなど、常人ではできない仕事を引き受けるほどに信頼されて遂行していたのが松尾芭蕉であったと解説されていました。
ここで、人の扱い、金の算段に長けることを経験していた、これが芭蕉のもう一つの姿であったそうです。
その第二は、松尾芭蕉は、奥の細道へと出かける前に、「更科紀行」など、三度の紀行をすでに行っていたことです。
すなわち、松尾芭蕉は、土方の元締め的仕事をしながらも、全国各地を訪れる旅の人であり、世の中の世相と地方をよく知って知っていた人物だったのです。
それゆえに、旅のなかでこそ、自分の究めたい句魂があると考えるようになったのではないでしょうか。
また、その旅のための財産は、その土方事業において得られ、貯蓄されていたように思われます。
しかし、芭蕉の仕事は、それだけだったのか、あるいは、芭蕉と徳川幕府の関係はどうであったのか、ここに焦点が当てられて、その「英雄たちの選択」の番組は、さらに議論が深められていました。
その問題を考えるヒントとして、その番組では、曽良に関しての究明がなされていました。
じつは、曽良が重要な役割を担っていたのではないか?
これを耳にして、そうであれば、山中温泉において芭蕉に先立って出ていった不可思議な曽良の行動の謎も解けるかもしれない、こう推察しました。
次回は、その推察に、より深く分け入ることにしましょう(つづく)。
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