秋深く
天高く馬肥ゆる、おだやかな秋の朝です。
今月も末日近くになりましたので、そのガイダンスをしておきましょう。
「緑砦館物語」
約半年ぶりに、緑砦館(GFH)におけるアグリ作業を再開しました。
まずは、緑砦館2の整備から始めました。
ここでは、A~Cの3水路が配備されていますので、その清掃、水張り、試運転と進めていきました。
約半年間の不使用で、ポンプとそのホースのなかに植物片がかなり溜まっていましたので、その除去を行いました。
これによって、3水路における光マイクロバブルの発生が可能になりましたので、早速、手持ちの苗の移植を開始しました。
幸いにも、プランターにおいてミニトマトの苗をたくさん育てていましたので、順次、それらを移植していきました。
その移植を終えたミニトマトの苗は、なんと429本という多数なものでした。
この苗は、まだ未移植状態のものもあり、最終的には500本を軽く超えるのではないかと予測しています。
また、緑砦館2に続いて緑砦館3の水路の清掃も進んできましたので、明日からは、これらに水張と試運転を行う予定です。
さらに、今週は、この緑砦館2と3の整備が進みましたので、各野菜の苗と種の購入に行こうということになりました。
さて、この数日間、久しぶりに身体を動かし、しっかり汗をかいたおかげで体調に変化が起こりました。
その一つが足の筋肉痛であり、少し歩くたびに、「痛たた!」を連発していました。
この痛みのおかげで、身体を動かし、汗を流してリフレッシュすることの大切さを改めて認識し直しました。
これから正月に備えて、自家製の光マイクロバブル野菜の栽培に勤しむことをめざすことにしましょう。
「不易流行の賦(5300回記念)」
「不易流行」とは、「不変のものでありながら、時代とともに動いていくもの」と解されていますが、この一見相対立する概念を昇華させて、そこに不朽の価値を見出していこうという概念を構築していったことに、松尾芭蕉の奥の細道における「新境地」が認められます。
「賦」とは、「授けられたもの」といえますので、それこそが、その新境地の概念ということができます。
この概念をじっくり考えりなかで、それは、現代の私のとっては「光マイクロバブルのことではないか」という認識に至りました。
水と空気を使用する、この方法は太古の昔から人類が慣れ親しみ、利用してきた不変の材料です。
その水と空気を利用して、そこに新たな機能性を持たせたのが、光マイクロバブル技術でした。
この技術は、筆者によって世界に先駆けて公開され、以後28年の経過のなかで、今尚、持続的な発展を遂げてきました。
それを俯瞰すると、この28年は「生成期」に相当し、これからようやく、次の「発展期」を迎えるのではないかという兆しを見せ始めています。
「新技術は、5年も経つと廃れてしまう」とよくいわれていますが、光マイクロバブル技術の場合には、それが当てはまりませんでした。
5年はおろか、30年近くを経過しても持続的な発展を遂げ、より力強く、次の発展期に向かおうとしていることに、光マイクロバブル技術の可能性と未来性が存在しています。
そのような未来技術としての可能性をいただいたことには、それこそ天賦性を覚えますので、これをさらに高次に発展させていくことが重要であり、そのことを探究し、生きた状態で記録していくために、本記念シリーズを企画しました。
今後も、その観点と視野を持って認めていくつもりです。
「未来を切り拓く『若者たち』(5250回記念)」
本日から始まったアメリカのメジャーリーグのワールドシリーズが終わると、大谷翔平選手のFA宣言、移籍問題が浮上してきます。
かれは、手の手術を行ったことで来期は打者としての出場のみだそうです。
今年は、かれが世界一の選手になったと、アメリカ国民が認めるようになった記念すべき年になりました。
アメリカ国民は、ベーブ・ルースのように、多少ハチャメチャであっても闘い続けることで夢を叶えていくことが好きであり、それをベーブルース以上に大谷翔平選手に期待したことが、非常に注目すべき現象といえます。
初のホームラン王と投手での10勝という快挙が、その現象を生み出した原動力になりました。
かれが、花巻東高校を卒業した時に、メジャーリーグへ入る話がありましたが、その時は、投手としてのみの入団でした。
そこに、日本ハムの栗山監督が、かれとドラフトでの交渉権を得て、その協議のなかで二刀流を試してみようという話で合意しました。
その栗山監督は、かつての西鉄ライオンズの名将といわれた三原修監督が残した「三原ノート」から勝負と選手に関する極意について深く学んでいました。
三原監督といえば、宿敵水原監督が率いていた巨人軍と日本シリーズを闘い、3連敗の後に4連勝を行うという離れ業をなした方でした。
この時、私は小学生であり、朧気ながらですが、近所の旅館にあったテレビで、この西鉄の活躍を拝見した記憶を有しています。
この三原采配の核は、一番高倉、二番仰木、三番豊田、四番中西、五番関口という強力打線と投手稲尾でした。
とくに稲尾は、同じ大分の別府出身でしたので好きな選手でした。
かれは、その4連勝のすべてにおいて投げ、さらにはサヨナラホームランまで打って、「神様、仏様、稲尾様」とまでいわれるようになりました。
その稲尾は、正規の選手ではなくバッティングピッチャーとして入団しました。
豊田、中西という強打者らは茶目っ気があり、打撃練習の際に、投手の稲尾をめがけてよく打ち返していたそうです。
その攻撃を受けた稲尾の方は、必死で、自分に当たらないように投げたそうで、それが、彼独特のコントルールを磨くことに役立ったのだそうです。
あるとき、豊田、中西らが、「稲尾が投げると打球が飛ばない」といっていたそうで、それを聴いた三原監督が、稲尾を実戦で投げさせ、稲尾は、それにみごとに応えました。
そこから、20勝以上をあげ、新人賞を貰いました。
そして、未だに誰も破ることができない一シーズン42勝という大記録を達成しました。
この稲尾は、投手のみならず、打者としても活躍し、たしか打率2割以上を修めていましたので、かれが打席に立つと大いに期待したものでした。
これは、大谷選手ほどの完全な二刀流ではないにしても、今考えれば、かなり立派な二刀流ということができるでしょう。
400勝の金田正一、一シーズン奪三振401の江夏豊選手も稲尾と同じようによく打っていました。
このように、偉大な選手は、投げる、打つの両方ができたのであり、大谷選手は、栗山監督の指導を通して、さらにその二刀流を進化させていったのではないでしょうか。
若者の活躍は、世の中をぱっと明るくします。
その意味で、未来は若者のためにあるものであり、今後の活躍が期待されます。
「老いの覚悟と生き方(4850回記念)奥の細道」
松尾芭蕉の「奥の細道」の追尾も、最終ルートに差し掛かってきました。
これから、金沢を出立して、福井、敦賀、そして最終目的地である大垣まで向かう旅路となります。
すでに述べてきたように、このシリーズの執筆は、作家の森村誠一さんが芭蕉になって現地を訪れ、その謎解きを行うというDVD5巻とその紀行本『芭蕉の杖跡』を基本にしながら、それらに加えて、数々のネット記事を読み添えるという形式で行ってきました。
森村芭蕉の鋭い解説も役立って、徐々に芭蕉の句魂である「不易流行」の意味が徐々に解るようになってきました。
芭蕉は、これを見知らぬ土地への旅のなかでこそ悟ることができると考えて旅立ったようですが、その成果を「奥の細道」とまとめ上げることで、後世に遺る偉業を成し遂げることができました。
同時に、森村芭蕉においては、同じ細道をたどりながらも、そこに社会派推理作家としての独自の境地も披露され、そこに二重のおもしろさがあると思っています。
いわば、ダブルでの不易流行の旅に分け入るというおもしろさと深さがあり、そこに、本シリーズを書き進める意味を深掘りする楽しさを覚えています。
もう一つおもしろいことは、森村芭蕉が推奨されている「写真俳句」を私もやってみようと思って、その作品を「スナップショット『凱風快晴』」において連載し始めたことです。
それを実際に行ってみると、写真や句のみを、それぞれ掲載した時よりも、数倍、その効果があることを理解できるようになりました。
写真のなかに、作者の想いを込めて、拝見していただく、そのおもしろさの深い意味を朧気ながら解り始めたようです。
これは私の奥の細道紀行における重要な成果のひとつといえますね。
今月のガイダンスは、ここまでです(つづく)。
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