佐渡島
新潟から市振へ、芭蕉らは、途中で宿探しにも困りながら、南に下っていきました。
途中、海の向こうに佐渡島を思い浮かべながら、出雲崎の宿屋において、次の名句が詠まれたといわれています。
おそらく、荒海で隔てられた、佐渡島の向こうの満点に天の河が、観えていたのだと思います。
ここでも、閑さや岩にしみいる蝉の声 や 五月雨を集めて早し最上川 などの名句と同様に、非常に大きな時空間におけるスケール観が示されています。
荒海や 佐渡に横たふ 天の河
当時の佐渡島では、金山の発掘が始まっており、そこで働く掘削人のほとんどは囚人たちでした。
古来から佐渡には、歴史上の人物が流された地であり、順徳上皇、日蓮、日野資朝、世阿弥などが流刑されています。
その意味で、芭蕉の時代において佐渡島は、暗く厳しい地域と見なされていました。
奥の細道には記載なし
芭蕉らは、酒田から北陸路を南下し、新潟を経て、市振にまで到達しました。
この間、芭蕉の体調が優れず、泊まる宿もなかなか見つからず、途方に暮れることが多かったそうです。
新潟は、酒田と同じ、北前船貿易で栄えたところですが、親しい弟子もいなかったからでしょうか、地元のみなさんとの交流はなかったようです。
森村芭蕉は、眼前の佐渡島を前にして、より社会性を色濃く反映させた句を詠まれています。
暗き海 佐渡に眠りし 夢もなし
佐渡島における厳しい労働と生活を余儀なくされたことに想いを寄せた名句でした。
奥の細道も、第三コースに歩み入れたのですが、ここでも山あり、谷ありの旅でした。
これらの旅での経験は、「奥の細道とは何か」を芭蕉自身に深く問いかけるものでした。
(つづく)。
柏崎市芭蕉句碑より引用
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