二人の「ダ・ヴィンチ」研究(2)

 宇和島の二宮敬作から届いた新資料に関する、高野長英と渡辺崋山の議論がホットになってきました。

 「崋山さん、これが、宇和島の二宮敬作から届いた資料です。

 どうやら、あの後に、X藩の蔵のなかを再度探し周って見つけたそうです。

 そこには、膨大な資料や文献があり、私が見ていたものは一部であることが解りました。

 あそこは、それこそ私たちにとっては宝の山ようですね。

 二宮も驚いていました」

 「長英さん、それはありがたいことですね。二宮さんと蔵元に感謝します。

 ところで、あなたは、その資料を読まれたのですか?どんなことが書かれていましたか?

 大いに気になりますね!」

 長英は、その資料を崋山に手渡しました。

 「これが、その資料です。

 ざっと目を通しましたが、どうやら、レオナルド・ダ・ヴィンチよりも後世の人が書いた伝記のような文書です。

 ダ・ヴィンチの幼いころのことが、かなり詳しく書かれていました」

レオナルド・ダ・ヴィンチの不幸な生い立ち(2)

 「すでに述べてきたように、ダ・ヴィンチは、ピエロという公証人の父親が、カテリーナという小作人の娘に産ませた子でした。

 ピエロは、レオナルドを正規の自分の子供として認知せずに、5歳までカテリーナに育てさせました。

 自分が生ませた子供でありながら、認知しないという自分勝手な父親でした。

 しかも、自分は他の若い娘と結婚し、その娘が子供を産めないとわかると、5歳のレオナルドだけを引き取ったのでした」

 「真に、いいかげんな父親ですね。

 優しく育てられていた母親から引き裂かれたレオナルドは、さぞかし辛かったでしょうね」

 「レオナルドは、引き取られた後も、母親のことを心配していたそうです。

 母親が亡くなったときの葬式の費用を自分ですべて支払いました。

 母親想いの息子だったのです。

 一方で父親の方は、自分で産ませた子でありながら認知をしない、母親から息子だけを引き取るという自分勝手な男でした

 「長英さん、レオナルドと比べたら、私たちは、はるかに恵まれた家庭で育てられたのではないでしょうか?

 大変貧乏ではありましたが、尊敬する父母に大切に育てられました」

 「私は、武士の家に生まれましたが、三男坊であり、高野家に養子に出されました。

 それでも、父母の愛情を受けて育ちました。

 決して裕福な家ではありませんでしたが、父母は立派な方々でした」

 「貧乏ではありましたが、父母の愛情によって今の私が育てられたと思います。

 そんな家庭の中で、レオナルドさんは、どのように育って行ったのでしょうか?」

 「当時の子供たちは、まず教会が運営する学校に入り、ラテン語の勉強を行います。

 しかし、レオナルドは認知されていない子供でしたので、この学校に入ることができませんでした。

 父親は、公証人の仕事で忙しく、レオナルドは自分で遊び、学ぶしかありませんでした。

 遊び道具も自分で作り、自分で試す、美しいものを見て、自分で絵を描く、すべてのことを自分で見て、聞き、試すということに夢中になっていったのです」
 
 「その実践の中で育って行ったということでしょうか。

 私は、幼いころに絵の勉強をしてきました。

 絵の腕を上達させる方法は、素晴らしい絵を見て真似て描くことから始まります。

 ひたすら描き続けるという実践を通じてしか、絵を上達させる方法はありません。

 ある時から夢中になって絵を描き進めるようになることがあります。

 そうなると、それこそ寝ても覚めても絵を描くことを考え、筆を走らせるようになります。

 きっと幼いレオナルドもそうだったのではないでしょうか?」

 「さすが、同じ絵描きとしての実感がこもっていますね。

 きっと、そうだと思いますよ。じつは、レオナルドの絵才については、おもしろいエピソードがありますよ」

 「どんなエピソードですか?」

 「あるとき、ピエロは、お客さんから盾に絵を描くように依頼されたことがありました。

 それで一儲けしようと考えたかれは、それを絵師に頼むのではなく、自分の息子のレオナルドに描かせました。

 レオナルドは、何も知らずに絵を描き上げてアトリエの小屋に置いていました。

 あるとき、その小屋にピエロが入っていって、腰を抜かしました。

 その盾に描かれていた怪獣を生きている本物だと思ったからでした」

 「それは、おもしろい話ですね」

 「しばらくして、自分を落ち着かせたピエロは、その怪獣の主が、レオナルドが盾に描いたものであることに気づきました。

 そして、『この子は絵の才能があるかもしれない』と思ったのでした」

 「それで、ピエロは、どうされたのですか?」

 「この父親は、ずる賢く、それを別の画家に描かせてうり、レオナルドが描いた絵は、別に売りさばいたのでした」

 「自分のことしか考えない、どうしようもない父親ですね」

 「しかし、一つだけよいことをしたのは、レオナルドの才能を見抜き、当時フィレンチェ一といわれたヴェロッキオ工房に入れたことでした。

 このとき、レオナルドは13歳でした」

 嫡出子としてのレオナルドの生い立ちが、幼い不幸な運命を背負わされたことを知り、崋山は、何も言わずに考え込んでしまいました。

ーーー レオナルド・ダ・ヴィンチの生い立ちは、私よりもはるかに不幸であった。

 母も子も認知されないままに、かってな父親のために学校にも行けず、学問も教えてもらえず、放置されたままであった。

 その父親は、母を捨て、別の若い金持ちの娘と結婚し、子供ができないことを知ると、レオナルドを引き取り、母子の間を引き裂いてしまった。

 それに引き換え、私は、貧乏とはいえ、父母の厚い愛情のもとで育てられた。

 武士としての身分を受け継ぎ、好きな絵の習いもさせてもらった。

 明らかに、レオナルドと比較すると私の方が恵まれているではないか!

 しかし、レオナルドの芸術性、絵画力は、はるかに私を勝っている!

 この違いは何なのであろうか?

 長英は、こう考え込んだ崋山をじっと眺めていました。

 次回は、不幸のなかで、レオナルドがたくましく成長していったこと分け入ることにしましょう(つづく)。

dabde+44

ダビデ像(ヴェロッキオ作)
(レオナルド・ダ・ヴィンチがモデルだといわれている。札幌情報お届けHPより引用)