出羽三山

 立石寺を後にして、元禄2年(1689)6月1日(新暦7月17日)に、芭蕉らは新庄に向かい、そこで宿泊しました。

 近くに清水が湧き出る泉があると聞き、そこを訪れて、次の句を詠まれています。

 水の奥 氷室尋ぬる 柳哉

 その水を飲まれて、あまりにも冷たくて美味しい水を飲んだ感動が示されています。

 折しも、この日は、氷室祭りが開かれていたそうです。

 この祭りとは、冬の間に氷を洞穴に入れて保存し、それを取り出して皆でいただくのだそうで、この「氷室」を想起させたのでしょう。

 この泉は、一旦枯れてしまったそうですが、その後、みなさまのご努力で復活したようです。

 6月3日には、新庄を出発し、羽黒町に入ります。

 ここから10日まで、出羽三山を訪ねる一方で句会を開催して、地元のみなさんとの交流を深めていきました。
 
 出羽三山とは、羽黒山(414m)、月山(1984m)、湯殿山(1500m)のことであり、日本を代表する修験道(しゅげんどう)の聖地のひとつといわれています。

 この修験とは、「験力(げんりき)」と呼ばれる特別な力を身につけ、それを里で発揮して人々を救済することを意味していました。

 また、この三山を旅することは、「生まれ変わりの旅」ともいわれていました。

 これは、羽黒山が「現在」、月山が「過去」、湯殿山が「未来」を意味し、それぞれ、次の神仏が祀られていました。

    羽黒山において最初の霊山に入り、身を清め、厳しい自然のなかで死に至り、さらに進んで湯殿山において生き返る、修験者たちは、このような修行を繰り返したそうです。
 
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月山(手前は鶴岡市市街、ウィキペディアより引用)

 芭蕉らは、この出羽三山に分け入り、修験者たちの験力を体験しようとしたようです。

 また、その霊体験を次のように詠んで句会で披露しています。

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 私は、T高専のK先生と一緒に、この月の山を越えて蔵王温泉に向かったことがありました。

 目の前にはだかる月山を眺めて、その巨大さに圧倒されたことがありました。

 途中の峠辺りに店があり、大きなコンニャク玉を頬張ったことを思い出します。


 羽黒山といえば、五重塔が有名です。

 一見すると、この塔だけが聳えていますのでふしぎに思っていましたが、その解説を読むと、一連の社があったようで、それらが無くなり、どうやら、この塔だけが残ったそうです。

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羽黒山五重塔(つるおか観光ナビから引用)

 これに関しては、森村芭蕉は、次の句を詠まれています。

 塗し雪 首欠け地蔵の 物語り

 これは、五重塔の前で偶然見つけた頭無し地蔵に寄せた俳句である。

 明治になって廃仏令が施行され、周辺の社のほとんどが破壊され、売られてしまったそうです。

 それでも、この五重塔を遺そうと、地元もみなさんは激しい抵抗運動をなされたようで、この五重塔他は、その激しいレジスタンスの象徴として遺ったのです。

 芭蕉らが、ここを訪れた際には、この五重塔他の社のほとんどが建立されたままであったことから、そこには、レジスタンスの欠片もなかったのです。

 首欠け地蔵の物語とは、レジスタンスの物語であり、社会性あふれる物語だったのです。

 ここで、森村芭蕉は、松尾芭蕉との違いを明らかにします。

 ここまでにおいて松尾芭蕉が究めた不易流行は、信仰のなかの「静寂(しじま)」であるといい、その境地には決してたどり着けない、こう森村芭蕉は言い切ります。

 なぜなら、松尾芭蕉以来の歴史においては、数々の社会的出来事が起きており、その歴史的、社会的出来事を乗り越えていく、それが森村芭蕉らの「宿命」であるというのです。

 この宿命があるがゆえに、世の中を生き抜いていける、こう社会的推理作家の森村誠一は洞察したのでした。

 芭蕉と同じ道を歩みながら、自分との違いは何かを考え、その結論が出始めたようで、森村芭蕉も重要な何かを越え始めたようですね。

 これが森村芭蕉の「物語」の結論の一つといえるでしょう(つづく)。