二人の「ダ・ヴィンチ」研究
渡辺崋山と高野長英の「レオナルド・ダ・ヴィンチおよびイタリアルネサンス研究」が始まりました。
「崋山さん、数日前に、二宮敬作からおもしろい手紙と資料が届きました。
それには、ある西洋好きな変人からもらったそうですが、それは極秘として、二宮がかつての鳴滝塾の伝手から入手したことにしてくださいという添え書きがありました」
「それは、なんですか? なにか意味深ですね」
「宇和島の変人といえば、二宮もそうですが、もっと変人といえば一人しかいませんよ。
きっと、この前の面会が刺激になって、蔵のなかを探し回ったのではないでしょうか?
どうやら、私が拝見していたものよりもはるかに多い貴重なものが見つかったそうですよ。
そのなかに、レオナルド・ダ・ヴィンチの生い立ちと幼いころのことを記した伝記風の文書資料があったそうです」
レオナルド・ダ・ヴィンチの不幸な生い立ち
「なるほど、レオナルド・ダ・ヴィンチは、どんな家庭に生まれたのでしょうか?」
「かれは、1452年4月15日に生まれました。今から400年以上も前の人物でした。
そのかれが、今も尚、世界中の人々の心を捉え、魅了する作品を次々に生み出したのですから、どんな人物であったのか、私も非常に興味を抱きました。
かれの父親は、ピエロという名前で、職業は公証人でした」
「その公証人とは、どんな職業ですか?」
「どうやら、商業上の契約や帳簿などの私的文書を作成する仕事で、法的な文書も作成していたようです。
当時のイタリアでは、君主や教会のほかに、商人が力を持っていて一つの都市を実質的に治める力を持っていました。
それらの商人同士においては、何事においても商売上の契約を結ぶことが多く、そこに公証人の出番がありました。
そして、そこで公用されていた言語がラテン語でした。
このラテン語を読み書きできることが、公証人の仕事として最も重要なことであり、その意味では、公証人は知的エリートの職業でした」
「なるほど、レオナルド・ダ・ヴィンチは、公証人の家に生まれたのですか?かれも、公証人になるように勧められたのですか?」
「いや、まったく、そうではありませんでした。父親のピエロは、フィレンチェで働いていました。
じつは、レオナルドの母は、カテリーナという名前で、フィレンチェの近くのダ・ヴィンチ村における小作人の娘でした。
このカテリーナに産ませた子がレオナルドだったのです。
父親のピエロは、だらしない男であり、レオナルドを産ませたカテリーナを認知せず、その後、別の女性と結婚したのでした。
しかも、レオナルドが5歳になるまで、カテリーナに育てさせたのです。
これによって、レオナルドは非嫡出子として認知されない子として育てられたのです。
日本流にいえば、レオナルドは妾の子だったのです」
「そうですか、不幸な生い立ちだったのですね。可哀そうに、物心が付いたころには、きっと苦労したのでしょうね」
「はい、ずいぶんと友人たちから虐(いじ)められたそうですよ。
一番の問題は、正式に認知されなかったことで、学校に入ることができなかったことでした。
当時の学校は、どんな学校だと思いますか?」
「そうですね。中世の時代ですから、大部分の知的エリートは教会関係だったのではないですか?」
「崋山さん、さすが鋭いですね。学校の運営は、教会が行っていました。
じつは、レオナルドは正式に認知されていなかったので、その学校に入れませんでした」
「それは大変だったですね。わが国では、藩が運営する藩校がありますが、ここに入れるのは武士だけです。
しかし、それでは、商人や百姓の子はどうしたかというと、寺子屋や塾があり、そこで勉強することができました。
そのようなものは、なかったのですか?」
「教会が、そのような教育機関の設置を許すことはありませんでした。当時の教会は、権力と共に財力も握っていたのです」
「といいますと?」
「その教会の学校では、ラテン語を教えていました。
それが正規の公用語であり、宗教的教え、政治的伝達、法律、商業的契約など、ほとんどすべてがラテン語によって記述されていました。
それゆえ、ラテン語を勉強しないと、市民としての仕事のほとんどを行うことができませんでした」
「レオナルドは、ラテン語を学ぶことができなかった、ということですか?」
「その通りです。それが、認知されない子供の宿命だったのです」
非嫡出子としてのレオナルドの生い立ちが、幼い不幸な運命を背負わされたことを知り、崋山は、何も言わずに考え込んでしまいました。
次回は、そのレオナルドの不幸に分け入っていくことにしましょう(つづく)。
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