追悼・久松俊一先生(23)
久松先生、草葉の陰でいかがお過ごしでしょうか?
ご存命であれば、以前のように、私が投稿した論文の査読に取り組まれているのではないでしょうか?
たしか、2015年の論文の時もそうでしたね。
その査読を行った後に、しばらくして、あなたが査読を行ったことを打ち明けてくださいました。
あの論文において、私は、「高専に危機の可能性」が訪れているという認識を示しました。
それは、高専の電気電子関係の2、3の学科において定員割れが起きたことを危惧して、それが本質的危機の兆候ではないかと推察したことを率直に指摘したものでした。
その時から約8年が経過しました。
その危機の構造は解消されたのか、それとも逆により深刻化したのか、これらのことを今回の一連の論文化においてより詳しく調べてみました。
そしたら、2022年度において、より深刻な状態で、数多くの学科の定員割れが起こり、その数が10数学科にも及んでいました。
そして、より深刻だと思ったのは、学校全体でも定員割れが起こり始めていることでした。
さらに、その危機観を強めたのは、その抜本的改善策を高専を挙げて取り組んでいないのではないかと思ったことでした。
これは、玄関先で火が点いているのに、それを放置していることであり、すぐに、母屋にもその火の手がやってくることを示しているのではないか、を意味しています。
なぜ、そのことを真正面から捉えて、高専機構も各高専も真剣に取り組まないのか、今や、体面を取り繕っている段階ではない、あるいは、それを個別高専に任せておくべきではないという状況になっているにもかかわらず、そのことが、各種の報告などにおいて十分に明確には示されていないのではないでしょうか。
この後ろ向きの姿勢と対応が、ますます、その改善を困難にしているように思われます。
久松先生、私は、そう思っていますが、いかがでしょうか?
そんな思いを踏まえて、つい先日、一連の論文化における第五報において、その指摘をしたところです。
だれかが、このような指摘をしないと、物事は進展していかないので、かつてと同様の役割を果たす、これに努めました。
また、この厳しい状況をブレイクスルー(打開)していくには、高専史において形成された5つの独創的長所を全面的に発展させることではないかと思っています。
そこで、その3を検討することにしましょう。
高専の独創的長所3
(3)大学との総授業時間数の比較
私は、最近日本高専学会に投稿し、「21世紀における高専教育改革の展望(Ⅱ)ー高専史における独創的長所の形成過程ー」(掲載可)のなかで、5つの独創的長所を明らかにしました。
本日は、その3番目について考察します。
私は、土木学会の土木教育委員会の委員をしていた関係で、日本技術者教育認定に関する別の委員会にも所属していました。
この関係で、実際の教育認定の審査にもかかわるようになりました。
あるとき、その審査委員の研修会の席において、大学における総授業時間数に関する変更の問題が報告されました。
これまでの1800時間を、大学側の要望に基づいて1600時間にするのは、どうかという問題でした。
その時の大学の実情に照らすと、1800時間では厳しいという指摘がなされ、それを200時間減らすという提案が相次いでいたのです。
その際に、同じ期間において高専の総授業時間数を調べてみると、2450時間前後のものが多かったので、改めて、その違いに少々吃驚したのでした。
これでは、大学と高専において約1000時間前後の違いがありますので、こんなに違ってよいのであろうかと大いに疑問を持ったのでした。
そして、こう思いました。
「大学では、明らかに教えなさ過ぎているのではないか。各大学において、総授業時間数を減らすのではなくて、むしろ少し増やすべきではないか」
こう考えて、「あまりにも高専とは違いすぎますよ!」という意見を述べたことがありますが、そのことに頷く方はおられず、結局、その1600時間が認められてしまいました。
この時、なぜこのような大きな違いが生まれたのか、そのことに疑問を覚え、調べてみると、大学と高専では、授業の単位数の数え方が大きく違っていたことに気づきました。
前者では、1時間の授業を15週受けると1単位となりますが、高専の場合は、30週で1単位と見なされています。
すなわち、高専の方が倍の時間をかけて教えていたのです。
1000時間の違いは、大学方式でいうと約66単位の違いになりますので、これは決して小さくない数字ではありません。
この違いは、どのような結果をもたらしたのでしょうか?
そこに非常に重要な問題が存在していましたので、次回は、そこに分け入ることにしましょう(つづく)。
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