山寺へ
紅花の思い出を残しながら、芭蕉らは、奥の細道の第二コースのハイライトである山寺(立石寺)へと向かいました。
10日間の尾花沢滞在で、心身の疲れを癒し、すっかり元気を回復しての山入りでした。
尾花沢から山寺駅までは約40㎞、徒歩で約8時間の工程でした。
通称「山寺」、正式名「宝珠山立石寺」は、860年に建立されました。
第三世天台座主の慈覚大師円仁によって開かれた、山寺を中心とする山々は東北を代表する霊山といわれています。
松尾芭蕉は、尾花沢の鈴木清風から、この山寺をぜひとも訪れたらよいと勧められていたので、この訪問を楽しみにしていました。
尾花沢を出発して山寺に到着したのが、1689年5月27日(現在の7月13日)初夏のことでした。
この山寺は、高僧たちが修行する霊山であり、高所にいくつもの社が建てられ、まるで空の上にあるかのようでした。
その様子を、森村芭蕉は、次のように詠まれています。
寒寺や 怖(おそ)れるほどの 空にあり
ここは、海抜500mたらず、麓からは190mの高低差ですが、そこを上っていく階段の数は1015段もありました。
急峻な上りの勾配を和らげるために、たくさんの階段を設けたのでしょうか。
松尾芭蕉も、そして森村芭蕉も、この階段を踏み締めながら、高所にごとに霊気を覚えながら進んでいったようです。
そして辿り着いたのが、立石寺本館の根本中道、さらに上がって、せみ塚、開山堂、納経堂、さらに、芭蕉が次の句を詠んだ五大堂がありました。
とくに、五大堂からの景観はすばらしく、麓の道々や緑が一望できました。
ここで眼下の眺望に感激しながら、ひしひしと感じたのが、閑(しずか)さでした。
当初、この句は、「山寺や 岩にしみつく せみの声」と詠まれていたそうですが、これをさらに仕上げて、「閑さや」という一般化を図り、さらに、「しみいる」という表現を工夫されたようです。
山寺という固有名詞ではなく、「閑さや」に変更することによって、全国の誰もが蝉の声を聴くと、この句を思い浮かべるようになったのです。
蝉の声の謎
芭蕉の立石寺参りの詳細を知らなかった私は、当初、林の中で蝉が鳴き、目の前にあった岩に、その声がしみいっている光景に出会ったことで、この句ができたのだと想像していました。
それから、蝉の声については、有名な作家の論争まで出現してきたそうですが、森村芭蕉は、それがニイニイゼミか、あるいはミンミンゼミかなどのことには、どうでもよい、そこに深入りすることには、あまり意味がないと説かれています。
また、かれは、松尾芭蕉がここを訪れたのは初夏であり(7月13日)、その時には、蝉は啼いていなかったという指摘をズバリなされています。
それでは、芭蕉は、なぜ、「蝉の声」と詠んだのでしょうか?
この句は、上記のように、句そのものを後になって、より不易流行にするために改良されています。
五大堂に立って、芭蕉が眼下の景色を感動しながら眺めた時に最初に感じたことは「閑さ」でした。
これをどう表現したらよいのか、芭蕉は、これを懸命に考究したことによって、その閑さを蝉の声と対比させるのがよいと考えられたのではないか、これが森村芭蕉の推察でした。
そして、その蝉の声をさらに誇張するために、岩にまで、その声が「しみいる」と表現されたのだと思われます。
同じように、五大堂に佇み、眼下を見下ろした森村芭蕉は、その閑さに気づきました。
しかし、かれが訪れたのは3月でしたので、蝉に声はありませんでした。
「ここで、芭蕉は、なぜ蝉の声を持ってきたのか?」
そう考えているときに、丁度山寺駅に電車が入ってきました。
その「ゴー」、あるいは「ゴトン、ゴトン」という大きな音を聴いて、かれはひらめきました。
麓との標高差は約200m、音は上に拡がっていきますので、その電車の音は、近くの平地で聴くよりも大きかったはずです。
「そうか、芭蕉も、ここに佇んで閑さを堪能しているときに、麓の方から発した何かの音を聴いたのではないか?」
「それが、蝉の声に結びついたのだ!」
そのひらめきとは、このようなものだったのではないでしょうか?
歴史の残る名句とは、このような「ひらめき」を重ねて、より洗練がなされるなかでできあがるものであり、ここに芭蕉の「凄さ」があり、これこそが「不易流行」であるといえます。
不易とは、変わらざるもの、そして流行とは新しいものであり、これらを統一させた巧みさが、この句の革新を呼び起こしたように思われます。

このとき森村芭蕉も、次の句を詠まれています。
これで、歴史的名句の実像をしることができました。
今は、7月の下旬、国東では、蝉時雨が聞こえてくるようになりました。
あの声は、アブラゼミのようですね(つづく)。
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