江戸に戻った「二人」

  「長英さん、この度の宗城公謁見の件、真にありがとうございました。

 二宮敬作さんから見せられた『糸巻の聖母』は衝撃的でした。

 何といっても、私の画家としての、これまでの考えが脆くも打ちのめされましたことが重大でした。

 この絵画の方が、はるかに優れている、これは敵わない、と思いました」

 「崋山さん、それはよかったですね。わざわざ、宇和島まで出かけて行ったかいがありましたね。

 宗城公と久しぶりに再会し、お元気そうでした。

 西洋文化に明るく、かれのところ行けば何か見つかるのではないかと想像していましたが、やはり、その何かがありましたね。

 私としては、かれがシーボルト先生とかなり前から親しく会っておられ、その後も親交を温めておられたことに驚きました。

 宇和島に招聘されたのも、その背後には、シーボルト先生の推薦があったことまでは知りませんでしたので、本当に吃驚しました」

 「シーボルト先生は、若いにもかかわらず、非常に優秀な方ですね。

 どうして、あのようにすばらしい方が生まれたのでしょうか?

 長英さんは、愛弟子でしたので、よくお解りのことでしょう」

 「シーボルト先生は、ドイツのビュルツブルグという小さな都市に生まれました。

 お父さんも医者であり、幼いころから、医者になる教育を受けていたのだと思います。

 ドイツ人の幼児教育は、非常に優れていて必ず2つ以上のことを習わせます。

 たとえば、ピアノやバイオリンを習わせると、それに加えて美術を習わせるというやり方です。

 かれの場合は、それらに医学などの理科教育もなされていたのではないかと思います。

 この教育の成果が、シーボルト先生の考え方や行動に良く現れています。

 かれは、オランダ政府に雇われて日本にやってくる際に、医学だけでなく、さまざまな自然や社会現象を調べるようにいわれていました。

 シーボルト先生は、それにふさわしい方だったことから、そして何よりもそうしたいという先生の積極的な意思があったことから、あのような幅広い活動ができたのだと思います」

 シーボルトの話になると、長英は、それこそ立て板に水のように少しも淀まず、あれこれと夢中になって話し始めました。

 「長英さん、あなたは、本当にすばらしい師に巡り合えましたね。

 これは、めったにないことですよ!

 その先生が、あなたに与えた研究テーマが鯨だったのですね

 「そのテーマをいただいた時に、ぎょっとしました。

 私は、医学を勉強しに来たのに、なぜ、魚の研究をしなければならないのか、と思いました。

 それでも、鯨の研究をし始めて、最初に気付いたのは、鯨が哺乳類であり、ヒトの体と同じ機能を有していることでした。

 そのことに気が付いて、シーボルト先生が、なぜ鯨の研究をせよといった意味が解りました。

 そして、鯨の研究をさらに進めていくうちに、もう一つの意味があることを知りました」

 「それは、どのような意味だったのですか?」

 「崋山さん、それは鯨油のことだったのです。

 あのペリーたちもそうでしたが、船には灯りが必要です。

 その灯りの材料として鯨油が用いられていましたので、非常に重要な貿易商品だったのです。

 それゆえ、各国間で鯨油争奪戦が起こっていました。

 日本では、古くから鯨漁が盛んに行われていましたので、自分で鯨油を手に入れることができていたのです。

 それゆえ、医学の面からだけでなく、貿易商品の問題をも、私に研究せよと指示しておられたのです」

 「なるほど、シーボルト先生は、賢い方ですね。

 長英さんが、どういう人物かをしかと見抜いて、あなたにふさわしいテーマを授けたのですね。

 長英さん、あなたは、非常に幸運な方だったのですね」

 「そうかもしれません。

 いや、きっとそうだと思います。

 それに加えて、先生からは、ドクター論文を書くようにいわれました。

 それがドイツ流のドクトル育成法でした。

 やはり、論文を書くということは、物事に対するきちんとした考えができていないと実行できないことですので、そのために資料を調べ、考究し、議論もするという行為を重ねていくことによって初めて可能になります。これは非常に勉強になりました」

 「うらやましいかぎりです。私にもそのような師がいたら、これまでとは違う人生を歩んでいたのかもしれません。

 ところで、長英さん、その後、二宮敬作さんから何か連絡はありましたか?」

 「はい、ありましたよ。

 その後、宗城公は、『糸巻きの聖母』に関する資料を探されているようです。

 それによれば、糸巻きの聖母は、レオナルド・ダ・ヴィンチが主催していた工房において描かれたもので、その描き手は、レオナルド・ダ・ヴィンチほかの弟子たちだったそうで、さらには、その絵画を模写した方々もかなりいて、それが、日本にも渡ってきたのだそうです。

 また、同じ題材で違う絵画もあるようですね」
 
 「そうだったのですか、私が観たのは、その一方のものだったのですね。

 しかし、それを描き、描かせたレオナルド・ダ・ヴィンチという人は、凄い方ですね。

 なぜ、あのように生き生きとした絵が描けるようになったのかと、ふしぎで仕方がありませんでした」

 「それがルネサンスとかいう、文化の違いなのですね。

 その後、私は、レオナルド・ダ・ヴィンチとかいう人に興味を抱いて、すこし、かれのことを調べてみました」

 「そうですか? それはありがたいですね。

 それは、私がぜひとも知りたいと思っていたことです。

 やはり、生い立ちからして、私どもとはかなり違っていたのではないですか?」

 「すばらしい、崋山さん、目の付け処が違いますね」

 こうして、二人は、レオナルド・ダ・ヴィンチの幼い頃のことを論議し始めました。

 次回は、そのダ・ヴィンチ論により深く分け入っていくことにしましょう(つづく)。

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    レオナルド・ダ・ヴィンチ作「バクルーの聖母」(ウィキペディアより引用)